25日21時28分=2023年=
あと1死だったのに…わが町内出身の樋口選手(中越) 東京学館に逆転サヨナラ負け
甲子園への道が決まる全国高校野球新潟県大会決勝。わが町内出身の樋口選手がメンバーにいる中越高校は今日7月25日、東京学館新潟に5-6で逆転サヨナラ負けした。あと一死、あと1ストライクだったのに、決められなかったのが残念だ。
仕事のため、9回からしか見られなかった。テレビをつけると、5-4で1点リードしている。9回裏を押さえれば甲子園行きが決まる。その9回も1死までこぎつけたのに、その甲子園という重圧で肩に力が入ったのだろうか。ストライクゾーンから大きく外れる球が多くなってきた。
中越は2死1塁からセンターに痛烈なタイムリーヒットを打たれ、ついに同点にされた。たまらず、途中降板のエース野本がライトの守備から再びマウンドに上がった。
そして、2-3のフルカウントに。ここで空振りさせるか、ストライクで見逃しを取るか、または内野ゴロ、外野フライでもいい。なんでもいいからアウトさえ取れればいいのに、5球目はど真ん中へ行ってしまった。打球は左中間に転がり、逆転サヨナラで負けてしまった。
↓2アウト2塁でフルカウント。ここを押さえれば甲子園行きが決まる場面

↓球はど真ん中へ。同点に追いつかれる

↓甲子園初出場を決めた東京学館新潟

↓負けた中越高校

ところで、中越高校の樋口優志捕手は、2年生ながら179cm、80kgの恵まれた体格だ。わが町内出身で、高田ジュニアリーグでは「白峰」の4番を打ち、2018年には年間優秀選手賞を獲得した選手。
今日は8番捕手で先発出場。2回表は空振り三振、3回表は1塁ゴロ、6回表は1死1塁から併殺打で残念ながらヒットが出なかった。準決勝までは5割を打っていたのに、緊張していたのか。8回表は代打が出され、交代されてしまった。
樋口選手はまだ2年生。まだチャンスがある。それと、初出場の東京学館新潟には、中越高校の分も頑張ってほしい。
今日の
最低気25.1度、最高気温33.9度。晴れ。

○……赤倉観光ホテルの名物、フルーツケーキ。ドライフルーツとクルミ、赤と緑のドレンチェリー、ラム酒に漬け込んだレーズンがぎっしり詰まっている。とてもおいしいのだが、原料高の影響で小サイズ1本が2700円に。ちょっとした手土産にできない価格になってしまった。
仕事のため、9回からしか見られなかった。テレビをつけると、5-4で1点リードしている。9回裏を押さえれば甲子園行きが決まる。その9回も1死までこぎつけたのに、その甲子園という重圧で肩に力が入ったのだろうか。ストライクゾーンから大きく外れる球が多くなってきた。
中越は2死1塁からセンターに痛烈なタイムリーヒットを打たれ、ついに同点にされた。たまらず、途中降板のエース野本がライトの守備から再びマウンドに上がった。
そして、2-3のフルカウントに。ここで空振りさせるか、ストライクで見逃しを取るか、または内野ゴロ、外野フライでもいい。なんでもいいからアウトさえ取れればいいのに、5球目はど真ん中へ行ってしまった。打球は左中間に転がり、逆転サヨナラで負けてしまった。
↓2アウト2塁でフルカウント。ここを押さえれば甲子園行きが決まる場面

↓球はど真ん中へ。同点に追いつかれる

↓甲子園初出場を決めた東京学館新潟

↓負けた中越高校

ところで、中越高校の樋口優志捕手は、2年生ながら179cm、80kgの恵まれた体格だ。わが町内出身で、高田ジュニアリーグでは「白峰」の4番を打ち、2018年には年間優秀選手賞を獲得した選手。
今日は8番捕手で先発出場。2回表は空振り三振、3回表は1塁ゴロ、6回表は1死1塁から併殺打で残念ながらヒットが出なかった。準決勝までは5割を打っていたのに、緊張していたのか。8回表は代打が出され、交代されてしまった。
樋口選手はまだ2年生。まだチャンスがある。それと、初出場の東京学館新潟には、中越高校の分も頑張ってほしい。
今日の足跡
最低気25.1度、最高気温33.9度。晴れ。

○……赤倉観光ホテルの名物、フルーツケーキ。ドライフルーツとクルミ、赤と緑のドレンチェリー、ラム酒に漬け込んだレーズンがぎっしり詰まっている。とてもおいしいのだが、原料高の影響で小サイズ1本が2700円に。ちょっとした手土産にできない価格になってしまった。
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04日16時06分=2023年=
暑さに負けず「高田城ロードレース」
早朝の気温は11.1度で、開会式が行われた午前7時には、16.6度とちょうど良い気温だったが、それからどんどん気温は上昇し、午前11時には25度の夏日となった。このくそ暑い中、高田城ロードレース大会が上越市の陸上競技場などを発着点に繰り広げられた。私はコースの誘導員として4時間ほど立ちっぱなしで、足が棒のようになった。
コース誘導をした場所はランナーが陸上競技場へ入る噴水の所。スタート時はハーフ、5km、10kmが忠霊塔入り口をスタートするので、コースを直進するように誘導。だが、最後にスタートする3kmは陸上競技場からスタートするので、ランナーを左折誘導させる必要がある。
↓ハーフA

↓ハーフB

↓ハーフC

↓ハーフD

ハーフはA~Dの4コースに分かれて時間差でスタートしたので、831人が一斉にスタートしたときのような迫力がない。大会のメインなのに、ちょっと惜しい。
↓3kmスタート

↓5kmスタート

↓10kmスタート

3kmの最後のランナーが行ったかと思えば、8時5分頃にはすでに、3km、5kmの先頭ランナーが戻ってきた。ゼッケンの色は3kmが緑、5kmがピンク、10kmは青、ハーフは黃である。ゴールは全コースが陸上競技場へ戻ってくるので、分けて誘導する必要はない。
ハーフの最後のランナーが入ってきたのは10時40分過ぎ。それまで休む暇もない。
↓3kmと5kmのランナーが次々と入ってくる

それよりも、噴水の所の信号機が動いているので、歩行者信号に従って青で横断する人や自転車がいて困る。ランナーは右折し、避けきれず衝突する恐れがある。なぜ、信号機を止めないのか。歩行者信号が青になって、自転車が猛スピードでランナーの間を走り抜けていってヒヤッとしたし、乳母車に子供を乗せた母親が、青に変わった歩行者信号に従って渡ろうとし、ランナーと衝突しそうになり危なかった。こちらはランナーを右折させるために誘導する旗を降っているので、後ろに目がない。通行止めの道路で信号が動いているのはおかしい。止めるか、点滅信号にしてほしい。
走り終わった人が、次々と自転車や徒歩でやってきて、ランナーが途切れるのを見ながら道路を横断するので、この場所は非常に気を使う。
さて、しばらくコース誘導をやっているので、高田城ロードレースを走ったのはいつか調べてみた。
2016年が最後で、それから7年も走っていない。記録は2時間28分4秒。2時間を切ったこともあるのに、ひどい記録だった。
ところで、完走証はゴールでもらうのではなく、正午過ぎにネットにログインして、そこからプリントアウトするのだという。なんだか、さびしい時代になったものだ。今年の高田城ロードレースは、選手宣誓も表彰式もなかった。これはコロナのせいなのだろうか。選手はゴールしたらすぐに帰れるので、楽ではあるが。
最近のマラソン大会は、エントリーがネットのみという大会ばかりなので、インターネットができない人は、大会への参加もできないようになった。完走証をプリントアウトするとなると、自分のアカウントがないとだめなので、人からやってもらうのも無理だと思う。
↓覆面軍団?

さて、今年のエントリー数はハーフが831人、10kmが512人、5kmが283人、3kmが469人の計2095人。前回より347人多いが、再募集した結果だし、ピークの2508人(20回大会)にはまだ及ばない。
↓遠来賞

↓最高齢賞

遠来賞は北は北海道、南は沖縄県。最高齢者は男性が長岡市の目黒誠二さん(84)、女性が上越市の小出宣子さん(81)だった。開会式でそれぞれ表彰された。80歳まで走れるというのは、日頃の鍛錬の賜物だと思う。
今日の
最低気温11.1度、最高気温27.3度。
↓ストリートダンス

↓麻婆オムライス

↓ジャンボメニュー2種類の見本

○……道の駅あらいで、「くびき野縁日」をやっていた。今回から指定管理者が東側エリアと西側エリアが同じ「ひだなん」になったので、連携がとれて大勢人が集まっていた。西側エリアの駐車場がほぼ満杯になったのは、オープン時以来、初めて見た。
芝生広場では、ストリートダンスなどをやっていて、にぎわっていた。やっぱりイベントをやらないと人は集まらないな。
食堂「みょうこう」も手軽に食べられるカレーとか、麺類、丼ものが豊富になった。
「麻婆オムライス」(990円)を食べたら美味しかった。抽選券をもらったので、抽選したらプレミアムモルツを1缶もらえた。ラッキー。
コース誘導をした場所はランナーが陸上競技場へ入る噴水の所。スタート時はハーフ、5km、10kmが忠霊塔入り口をスタートするので、コースを直進するように誘導。だが、最後にスタートする3kmは陸上競技場からスタートするので、ランナーを左折誘導させる必要がある。
↓ハーフA

↓ハーフB

↓ハーフC

↓ハーフD

ハーフはA~Dの4コースに分かれて時間差でスタートしたので、831人が一斉にスタートしたときのような迫力がない。大会のメインなのに、ちょっと惜しい。
↓3kmスタート

↓5kmスタート

↓10kmスタート

3kmの最後のランナーが行ったかと思えば、8時5分頃にはすでに、3km、5kmの先頭ランナーが戻ってきた。ゼッケンの色は3kmが緑、5kmがピンク、10kmは青、ハーフは黃である。ゴールは全コースが陸上競技場へ戻ってくるので、分けて誘導する必要はない。
ハーフの最後のランナーが入ってきたのは10時40分過ぎ。それまで休む暇もない。
↓3kmと5kmのランナーが次々と入ってくる

それよりも、噴水の所の信号機が動いているので、歩行者信号に従って青で横断する人や自転車がいて困る。ランナーは右折し、避けきれず衝突する恐れがある。なぜ、信号機を止めないのか。歩行者信号が青になって、自転車が猛スピードでランナーの間を走り抜けていってヒヤッとしたし、乳母車に子供を乗せた母親が、青に変わった歩行者信号に従って渡ろうとし、ランナーと衝突しそうになり危なかった。こちらはランナーを右折させるために誘導する旗を降っているので、後ろに目がない。通行止めの道路で信号が動いているのはおかしい。止めるか、点滅信号にしてほしい。
走り終わった人が、次々と自転車や徒歩でやってきて、ランナーが途切れるのを見ながら道路を横断するので、この場所は非常に気を使う。
さて、しばらくコース誘導をやっているので、高田城ロードレースを走ったのはいつか調べてみた。
2016年が最後で、それから7年も走っていない。記録は2時間28分4秒。2時間を切ったこともあるのに、ひどい記録だった。
ところで、完走証はゴールでもらうのではなく、正午過ぎにネットにログインして、そこからプリントアウトするのだという。なんだか、さびしい時代になったものだ。今年の高田城ロードレースは、選手宣誓も表彰式もなかった。これはコロナのせいなのだろうか。選手はゴールしたらすぐに帰れるので、楽ではあるが。
最近のマラソン大会は、エントリーがネットのみという大会ばかりなので、インターネットができない人は、大会への参加もできないようになった。完走証をプリントアウトするとなると、自分のアカウントがないとだめなので、人からやってもらうのも無理だと思う。
↓覆面軍団?

さて、今年のエントリー数はハーフが831人、10kmが512人、5kmが283人、3kmが469人の計2095人。前回より347人多いが、再募集した結果だし、ピークの2508人(20回大会)にはまだ及ばない。
↓遠来賞

↓最高齢賞

遠来賞は北は北海道、南は沖縄県。最高齢者は男性が長岡市の目黒誠二さん(84)、女性が上越市の小出宣子さん(81)だった。開会式でそれぞれ表彰された。80歳まで走れるというのは、日頃の鍛錬の賜物だと思う。
今日の足跡
最低気温11.1度、最高気温27.3度。
↓ストリートダンス

↓麻婆オムライス

↓ジャンボメニュー2種類の見本

○……道の駅あらいで、「くびき野縁日」をやっていた。今回から指定管理者が東側エリアと西側エリアが同じ「ひだなん」になったので、連携がとれて大勢人が集まっていた。西側エリアの駐車場がほぼ満杯になったのは、オープン時以来、初めて見た。
芝生広場では、ストリートダンスなどをやっていて、にぎわっていた。やっぱりイベントをやらないと人は集まらないな。
食堂「みょうこう」も手軽に食べられるカレーとか、麺類、丼ものが豊富になった。
「麻婆オムライス」(990円)を食べたら美味しかった。抽選券をもらったので、抽選したらプレミアムモルツを1缶もらえた。ラッキー。
23日21時29分=2023年=
WBC世界一の記念にスポーツ紙を購入 第1、2回の紙面も懐かしい
野球史に残る死闘だったWBCの準決勝、決勝を含む7試合が終わり、WBCロス(?)で今日は脱力状態。テレビを付けたらワイドショーではまだWBCを振り返る映像を繰り返し放送していた。決勝戦の大谷VSトラウトの対決で、大谷が空振り三振を奪って世界一を決めた場面は、昨日と今日で50回ぐらい見たのではないか。区切りを付けるため今朝、コンビニでスポーツ紙を記念に買ってきた。

スポニチは「大谷MVP!!」「米国撃破 世界一」「まるで台本 9回トラウト締め」の見出し。写真は中村捕手と抱き合う大谷とチームメイトの写真を大きく載せた。ほかにトラウトを三振に仕留めた場面と、トラウトと抱き合う大谷の写真もある。
スポーツ報知は「大谷『3年後出たい』伝説は続く」「最後トラウトK斬り 世界一かっこいい」「文句なしMVP」という見出し。写真は世界一を決めて帽子を投げ捨てて雄叫びを上げる大谷と、捕手の中村と抱き合う大谷、そして胴上げされる大谷と、トラウトを三振に討ち取った大谷。4枚すべて大谷だった。
この2紙は永久保存版だな。
↓第1回WBCの世界一を報じるスポーツ紙

↓第2回も連覇。イチローがサヨナラ打

ところで、王ジャパンの第1回WBCと、不振のイチローが決勝でサヨナラ打を放った第2回WBCのスポーツ紙が保存してあったことを思い出した。2回の世界一はイチローの存在が大きかった。
本棚にあった2006年と2009年の新聞を読んでみると、当時の興奮が蘇ってくる。写真もそうだが、文章は時代の空気まで伝える力があることを感じる。
ところで第1回、第2回のMVPは誰だったのか。紙面にはイチローの写真ばかりだが、2回とも松坂大輔だった。
今日の
最低気温10.5度、最高気温22.9度。曇りで温かい。
↓会見で3年後の決意を語る佐々木朗希

○……世界一を成し遂げた侍ジャパンが日本に戻り、午後4時ごろ、成田空港に姿を表した。そして休む間もなく記者会見。「楽しかった」という発言や、チームの結束力を示す発言が多かった。そして、3年後の世界一への決意を語っていた。その後、岸田首相に優勝報告をした。世界一になっただけに忙しいな。

スポニチは「大谷MVP!!」「米国撃破 世界一」「まるで台本 9回トラウト締め」の見出し。写真は中村捕手と抱き合う大谷とチームメイトの写真を大きく載せた。ほかにトラウトを三振に仕留めた場面と、トラウトと抱き合う大谷の写真もある。
スポーツ報知は「大谷『3年後出たい』伝説は続く」「最後トラウトK斬り 世界一かっこいい」「文句なしMVP」という見出し。写真は世界一を決めて帽子を投げ捨てて雄叫びを上げる大谷と、捕手の中村と抱き合う大谷、そして胴上げされる大谷と、トラウトを三振に討ち取った大谷。4枚すべて大谷だった。
この2紙は永久保存版だな。
↓第1回WBCの世界一を報じるスポーツ紙

↓第2回も連覇。イチローがサヨナラ打

ところで、王ジャパンの第1回WBCと、不振のイチローが決勝でサヨナラ打を放った第2回WBCのスポーツ紙が保存してあったことを思い出した。2回の世界一はイチローの存在が大きかった。
本棚にあった2006年と2009年の新聞を読んでみると、当時の興奮が蘇ってくる。写真もそうだが、文章は時代の空気まで伝える力があることを感じる。
ところで第1回、第2回のMVPは誰だったのか。紙面にはイチローの写真ばかりだが、2回とも松坂大輔だった。
今日の足跡
最低気温10.5度、最高気温22.9度。曇りで温かい。
↓会見で3年後の決意を語る佐々木朗希

○……世界一を成し遂げた侍ジャパンが日本に戻り、午後4時ごろ、成田空港に姿を表した。そして休む間もなく記者会見。「楽しかった」という発言や、チームの結束力を示す発言が多かった。そして、3年後の世界一への決意を語っていた。その後、岸田首相に優勝報告をした。世界一になっただけに忙しいな。
21日16時21分=2023年=
村上のサヨナラ打に興奮 WBC準決勝でメキシコとの死闘制す
いやー、こんな試合展開になるとは想像もしていなかった。これまで見たこともない死闘だった。WBCで侍ジャパンが世界一になるためには、準決勝でメキシコに勝たなくてはならない。だが、メキシコの先発ピッチャー、サンドバを打てず、佐々木朗希が4回表に3ランを浴びて3点を先行される重苦しい試合になった。7回に同点に追いついても、8回に2点を奪われ、絶望的な状態になった。だが最後の最後に、不振を極めていた村上宗隆がフェンス直撃弾を放ち、6-5で歓喜のサヨナラ勝ち。
↓佐々木朗希が先発

第2回WBC(2009年)での韓国との決勝戦で、イチローの勝ち越し2点タイムリーを思い出した。最後まで諦めず、チームが一丸となって戦った侍ジャパンに感動した。
日本は4-5と1点でリードを許して9回裏を迎えた。先頭の大谷翔平が左中間に2塁打を打ち、ベース上で雄叫びをあげてから一気にチームのムードが盛り上がった。それも単打ではなく、2塁打だったのは大きい。吉田正尚がバントで送ることもありえたが、四球で無死1、2塁に。そして、運命のように不振の村上に打席が回ってきた。ここもバントで送るんじゃないかと思ったが、試合の流れは日本に傾いていた。栗山監督は村上を信頼して「ムネ(村上)に任せた。思い切って行って来い」と送り出したという。
↓村上のサヨナラ打


村上の打球はセンターのフェンスを直撃した。普通なら1塁ランナーの生還は際どいプレーになる状況だ。だが、吉田正尚の代走で1塁ランナーに周東がいた。村上が打った瞬間からスタートを切り、大谷に追いつきそうなものすごい速さでベースを周り、滑り込んでサヨナラゲームを演出した。村上が打って勝ったことが、明日の決勝戦につながると思う。それにしても、村上が昨シーズンの最後の試合に、苦しみながら56号を打った場面を思い浮かべた。「土壇場の村上」はすごい。中継のアナウンサーは絶叫の繰り返しだった。
それにしても、メキシコの左翼手、アロザレーナの守備はすごかった。4回表、岡本の本塁打になる当たりをジャンプ一番、掴み取ったプレーはすごい。タイムリーも打っているし、再三のファインプレーに日本は苦しめられた。
↓吉田正尚の同点3ラン

サヨナラの一打を除くと、7回裏の吉田正尚の同点3ランはすごかった。内角の低めのボールを手首を返さずに右手一本でライトスタンドに運んだ。まさに世界に類をみない技術だ。中盤まで0-3と大きくリードされ、5回、6回とも満塁から得点できず重苦しい雰囲気だったのを一発で振り出しに戻した。
ゲームの中で重要なポイントとなったプレーがいくつかあった。源田選手の背面キャッチや、山川選手の犠牲フライにつながる8回のスリーバントも大きかった。7回表に甲斐捕手のキャノン砲が炸裂、リプレー検証でアウトにしたプレーも大きい。その裏の吉田正尚の同点3ランにつながる流れを作った。
↓試合後のインタビューに応じる大谷選手。明日は救援起用も?

さあ、明日はアメリカとの決勝戦。リードして最終回を迎えれば、大谷の登場があるかも。あすも、午前中はテレビに釘付けだ。先発は今永だという。明日は総力戦の死闘になりそうだ。
今日の
最低気温5.9度、最高気温20.6度。晴れ。
↓キリンのテレビCMより

○……吉永小百合を起用したキリンのクラフトビール「スプリングバレー」のCM。今月に入って頻繁に流れている。そのバックで流れている曲に聞き覚えがある。ビリー・ジョエルの名曲「ピアノ・マン」 だった。すごく効果的に使われていた。
先日、「芳醇496」と「シルクエール」の2種類を飲んでみた。両方ともすごくおいしかった。
↓佐々木朗希が先発

第2回WBC(2009年)での韓国との決勝戦で、イチローの勝ち越し2点タイムリーを思い出した。最後まで諦めず、チームが一丸となって戦った侍ジャパンに感動した。
日本は4-5と1点でリードを許して9回裏を迎えた。先頭の大谷翔平が左中間に2塁打を打ち、ベース上で雄叫びをあげてから一気にチームのムードが盛り上がった。それも単打ではなく、2塁打だったのは大きい。吉田正尚がバントで送ることもありえたが、四球で無死1、2塁に。そして、運命のように不振の村上に打席が回ってきた。ここもバントで送るんじゃないかと思ったが、試合の流れは日本に傾いていた。栗山監督は村上を信頼して「ムネ(村上)に任せた。思い切って行って来い」と送り出したという。
↓村上のサヨナラ打


村上の打球はセンターのフェンスを直撃した。普通なら1塁ランナーの生還は際どいプレーになる状況だ。だが、吉田正尚の代走で1塁ランナーに周東がいた。村上が打った瞬間からスタートを切り、大谷に追いつきそうなものすごい速さでベースを周り、滑り込んでサヨナラゲームを演出した。村上が打って勝ったことが、明日の決勝戦につながると思う。それにしても、村上が昨シーズンの最後の試合に、苦しみながら56号を打った場面を思い浮かべた。「土壇場の村上」はすごい。中継のアナウンサーは絶叫の繰り返しだった。
それにしても、メキシコの左翼手、アロザレーナの守備はすごかった。4回表、岡本の本塁打になる当たりをジャンプ一番、掴み取ったプレーはすごい。タイムリーも打っているし、再三のファインプレーに日本は苦しめられた。
↓吉田正尚の同点3ラン

サヨナラの一打を除くと、7回裏の吉田正尚の同点3ランはすごかった。内角の低めのボールを手首を返さずに右手一本でライトスタンドに運んだ。まさに世界に類をみない技術だ。中盤まで0-3と大きくリードされ、5回、6回とも満塁から得点できず重苦しい雰囲気だったのを一発で振り出しに戻した。
ゲームの中で重要なポイントとなったプレーがいくつかあった。源田選手の背面キャッチや、山川選手の犠牲フライにつながる8回のスリーバントも大きかった。7回表に甲斐捕手のキャノン砲が炸裂、リプレー検証でアウトにしたプレーも大きい。その裏の吉田正尚の同点3ランにつながる流れを作った。
↓試合後のインタビューに応じる大谷選手。明日は救援起用も?

さあ、明日はアメリカとの決勝戦。リードして最終回を迎えれば、大谷の登場があるかも。あすも、午前中はテレビに釘付けだ。先発は今永だという。明日は総力戦の死闘になりそうだ。
今日の足跡
最低気温5.9度、最高気温20.6度。晴れ。
↓キリンのテレビCMより

○……吉永小百合を起用したキリンのクラフトビール「スプリングバレー」のCM。今月に入って頻繁に流れている。そのバックで流れている曲に聞き覚えがある。ビリー・ジョエルの名曲「ピアノ・マン」 だった。すごく効果的に使われていた。
先日、「芳醇496」と「シルクエール」の2種類を飲んでみた。両方ともすごくおいしかった。
15日21時40分=2023年=
第1回WBCのユニホームも展示 南魚沼市の池田記念美術館
南魚沼市にある池田記念美術館は、ベースボール・マガジン社および恒文社の創設者で、野球殿堂入りした池田恒雄のコレクション約3,500点を展示している。建物は南魚沼市が建設し、公益財団法人池田記念スポーツ文化財団が運営にあたっている。開館した1998年の直後に行った記憶がある。

今回はWBCを前に、野球のコレクションを見ようと、裸押し合い祭りの翌日に立ち寄った。魚沼の美しい風景や人々を写した写真展「魚沼ベストショット展」や、目の錯覚を利用した「杉原教授の不思議な世界」という作品展もやっていた。小泉八雲の展示も興味深かった。
↓第1回WBCのユニホーム

何といっても、今回の注目は、第1回WBC(2006年)のときに投手コーチを努めた鹿取義隆さんのユニホームと帽子の展示だった。白地に赤でJapanと書かれ、肩は紺色。紺と赤の組み合わせは、今回のWBCも同じだ。説明には「第1回WBC 鹿取義隆氏着用ユニホーム」と書かれていた。日本チームの日の丸ペナントもあった。
第1回の監督は王貞治氏が日本を率いた。WBCが始まったころは客席はガラガラ。1万人ほどしか入っていなかった。世界一が近くなってから、爆発的に人気が高まったことを覚えている。今回のように、宮崎キャンプから人気が沸騰するとは、王さんも驚いているだろう。
↓ベーブ・ルースほかのサインボール

昭和8年、9年に行われた日米野球で、早稲田大学のボールにベーブ・ルースなどがサインしたボールもあった。字は色あせて読めないけれど。
↓王貞治の800号記念ボールと、756号達成記念メダル

世界のホームラン王、王貞治の756号達成記念メダルや、800号ホームランの記念ボールもあった。
↓長嶋と王のサインボール

「日本シリーズ公式使用球」に巨人の長嶋監督、ホークスの王監督がサインしたボールもあった。調べてみたら2000年の日本シリーズの際のものだ。このときは、巨人が4勝2敗でホークスを破り、6年ぶり19回目の日本一を果たした。最高殊勲選手は松井秀喜だった。
↓長嶋・王のコーナー

↓長嶋のグラブとサイン入りボール

長嶋・王のコーナーは使用したグローブや記念ボール、サインなどがあり、素晴らしいものだった。野球ファンはぜひ、訪れてみたい場所だ。
↓盗塁王、松本匡史のサイン入りユニホーム

↓長嶋とブルックス・ロビンソンのサイン

ほかに、巨人の盗塁王(76盗塁)、松本匡史のサイン入りユニホームや、長嶋がフィールディングの手本にしていたというオリオールズの名三塁手、ブルックス・ロビンソンと並べて書いた色紙もあった。
◇所在地:新潟県南魚沼市浦佐5493-3
◇電話:025-780-4080
◇開館時間:9時30分~17時(4月からは9時開館)
◇休館日:水曜
◇入場料:一般500円・高校生以下無料
◇公式サイト:http://www.ikedaart.jp/
今日の
最低気温0.3度、最高気温18.6度。晴れ。
○……2023年のアカデミー賞は「エブエブ」こと、「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」が主要部門6冠を達成した。
少し前のブログで、「当然、J-MAXでやるだろうと思ったら、富山だけなのでがっかり」と書いた。だが、アカデミー賞で6冠も獲得すれば、やらないわけがない。
3月17日(金)から上映することが決まった。1日4回の上映は当然だろう。

今回はWBCを前に、野球のコレクションを見ようと、裸押し合い祭りの翌日に立ち寄った。魚沼の美しい風景や人々を写した写真展「魚沼ベストショット展」や、目の錯覚を利用した「杉原教授の不思議な世界」という作品展もやっていた。小泉八雲の展示も興味深かった。
↓第1回WBCのユニホーム

何といっても、今回の注目は、第1回WBC(2006年)のときに投手コーチを努めた鹿取義隆さんのユニホームと帽子の展示だった。白地に赤でJapanと書かれ、肩は紺色。紺と赤の組み合わせは、今回のWBCも同じだ。説明には「第1回WBC 鹿取義隆氏着用ユニホーム」と書かれていた。日本チームの日の丸ペナントもあった。
第1回の監督は王貞治氏が日本を率いた。WBCが始まったころは客席はガラガラ。1万人ほどしか入っていなかった。世界一が近くなってから、爆発的に人気が高まったことを覚えている。今回のように、宮崎キャンプから人気が沸騰するとは、王さんも驚いているだろう。
↓ベーブ・ルースほかのサインボール

昭和8年、9年に行われた日米野球で、早稲田大学のボールにベーブ・ルースなどがサインしたボールもあった。字は色あせて読めないけれど。
↓王貞治の800号記念ボールと、756号達成記念メダル

世界のホームラン王、王貞治の756号達成記念メダルや、800号ホームランの記念ボールもあった。
↓長嶋と王のサインボール

「日本シリーズ公式使用球」に巨人の長嶋監督、ホークスの王監督がサインしたボールもあった。調べてみたら2000年の日本シリーズの際のものだ。このときは、巨人が4勝2敗でホークスを破り、6年ぶり19回目の日本一を果たした。最高殊勲選手は松井秀喜だった。
↓長嶋・王のコーナー

↓長嶋のグラブとサイン入りボール

長嶋・王のコーナーは使用したグローブや記念ボール、サインなどがあり、素晴らしいものだった。野球ファンはぜひ、訪れてみたい場所だ。
↓盗塁王、松本匡史のサイン入りユニホーム

↓長嶋とブルックス・ロビンソンのサイン

ほかに、巨人の盗塁王(76盗塁)、松本匡史のサイン入りユニホームや、長嶋がフィールディングの手本にしていたというオリオールズの名三塁手、ブルックス・ロビンソンと並べて書いた色紙もあった。
◇所在地:新潟県南魚沼市浦佐5493-3
◇電話:025-780-4080
◇開館時間:9時30分~17時(4月からは9時開館)
◇休館日:水曜
◇入場料:一般500円・高校生以下無料
◇公式サイト:http://www.ikedaart.jp/
今日の足跡
最低気温0.3度、最高気温18.6度。晴れ。
○……2023年のアカデミー賞は「エブエブ」こと、「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」が主要部門6冠を達成した。
少し前のブログで、「当然、J-MAXでやるだろうと思ったら、富山だけなのでがっかり」と書いた。だが、アカデミー賞で6冠も獲得すれば、やらないわけがない。
3月17日(金)から上映することが決まった。1日4回の上映は当然だろう。
05日22時37分=2022年=
中郷区で野村忠宏講演会 金メダルも披露
2004年のアテネオリンピックで柔道史上初の3連覇を成し遂げた野村忠宏さんの講演会が、上越市中郷区のはーとぴあ中郷で開かれた。1時間半の講演で、自分の頭で考え、自分で判断したことを最後までブレずに貫き通すことの大切さを学ばせてもらった。3個の金メダルを見ることもできた。

無料の講演会だが、入場整理券をはーとぴあ中郷か、総合事務所までもらいにいく必要がある。先月下旬に池の平に行った際、もらってきた。会場は満席状態だったが、入場30分前から並んでいたので、前方の席を確保できた。
最初に野村さんの選手時代の活躍ぶりをビデオ上映し、その後に野村さんが登場した。講演の中でもふれていたが、身長164cmと小柄でスマート。おそらく全身に筋肉が付いているのだろうが、とてもオリンピック3連覇した人には見えない。体は小さいが今も全身にエネルギーが満ちている感じがする。柔道一家で育ち、3歳から柔道を始めたが体が小さく、高校生までは平凡な選手だった。だが、大学の監督の的確なアドバイスで強さを増して行く過程の話が面白く、とても興味深かった。
講演の後、色紙が20人に当たる抽選会をしたが、野村さんが出てきて色紙を手渡したり、握手して記念撮影に応じるなど気さくな人柄をみせた。

【講演要旨】(野村さんがかなり早口で、十分にメモができなかったため、かなり省略してあります)
人生の大部分をかけてやってきた柔道を通し、学んだこと、経験した柔道を話したい。
オリンピックで3回金メダルを取ることができたが、決して私は特別な存在ではなかった。子供の頃からいくら頑張っても勝てないし、期待もされていなかった。
祖父が今から85年前、奈良で「豊徳館野村道場」を創設した。その道場で父や叔父も学んだ。私も3歳のときに一つ上の兄とともに柔道を始めた。父は現役時代、それほど名を上げた選手ではなかったが、引退してから天理高校の柔道部監督として高校を何度も日本一に導いた。父の弟はミュンヘンオリンピックの柔道で金メダルを取った。
今振り返ってもねすごく幸せだったのは、祖父の道場で柔道を学べたこと。祖父は、厳しい稽古は必要なく、柔道の基本を学びながら柔道を好きになってくれればいいと。自ずから目標を持って努力するようになると。両親も柔道だけしていればいいというのではなく、いろいろな経験をさせてくれた。小学生時代は柔道以外に週2回水泳をし、学校のクラブ活動はサッカー部、地元のスポーツ少年団では野球をしていた。いろんな経験をする中で、自分なりに一番魅力的だったのが柔道だった。
中学校の部活動は、楽しいだけじゃなく本気で強くなろうと思って柔道を自分で選んだ。それが私の最初の大きな決断だった。中学校は地元ではなく、電車通学で1時間の天理中学だった。入学した時の身長は140cmで、体重が32kgしかなかった。最初の試合が天理市立中学が集まって学年別でする試合で、1回戦で女子に負けてしまった。県大会のベスト16ぐらいが最高で、特別な、みんなが期待するような選手じゃなかった。
父親が監督をしていた名門の天理高校に進学するわけだが、天理高校の柔道部の練習があまりにも厳しいという情報を兄から聞いた。先輩が怖く、寮生活もしんどい。体格も80kg、90kg、中には130kgという人ばかりの中、強い高校の柔道部に入って心と体ついていけるかなという心配があった。
父親は柔道のアドバイスはほとんどしない人だったが、兄には「人の3倍努力する覚悟を持て」と言った。だが、私には「忠宏、無理して柔道せんでいいぞ」だった。兄に対しては期待する言葉だと思う。親父には厳しい言葉で俺の背中を押して期待してほしかった。悔しさを覚え「親父見とけ、俺はいつか強くなって親父が認めるようなすごい選手になってやる」というのが、大きな原動力になった。
天理高校の柔道部に入って、本音を言えば1週間で後悔した。45kgの自分が、80kg、90kgの中に飛び込んだわけだから、毎日毎日ぼろ雑巾のように投げ飛ばされた。柔道の厳しさ、寮生活の厳しさを味わいながら、その時でも逃げだそうとか諦めようっていうのはなかった。柔道を選んだのは自分だから。目標はしっかり持ち、高校3年生でようやく奈良県総体に出場し初めて優勝した。インターハイでは予選リーグで敗退し、1勝すらできなかった。
私の柔道人生が一変したのは天理大学に進学してから。大学に入って最初の試合は関西学生体重別選手権。当時大学には100人の部員がいて、60kg級には12、3人いた。大学1年のときは、校内予選で負けて出場できなかった。だが、大学2年では全日本の学生チャンピオンになり、4年生でオリンピックチャンピオンになった。誰もが想像してなかったぐらい大きな飛躍を遂げた。
自分自身が変わっていくきっかけは、大学2年のときにやってきた。大学には細川伸二という同じ60kg級で84年ロサンゼルス五輪金メダル、88年ソウル五輪銅メダルの実績を持つ一流の指導者がいた。細川先生は練習中に大きな声を出さない。じっと表情を見ている。だからこそ選手の悩みや課題が見えてくる。そしてここぞというタイミングを見極めて、一人ひとりの選手に言葉をかける。
2年生になった時、細川先生が「乱取りするぞ」と。先生は35歳ぐらいだが、引退して5年ほど経つ。乱取りは実践形式で相手と組み合って戦う反復練習で、6分のを12本やる。細川先生を投げたいと向かっていったが、6分過ぎても終わらない。10分ほど経ってお互いがバタバテになったとき、先生が「よし」と。「今までお前が頑張っていた練習というのは与えられた練習。常に残りの時間、本数を気にしながらペース配分して練習していた。それで本当に強くなれると思うか」と言った。そして「本気で自分を変えたいのだったら、目の前の6分で自分を出し切る意識を持って練習をしろ。バテたら休んでいいから、後のことを考えずに練習しろ」と言った。
気づかぬうちに、努力しているだけで満足するように変わっていた。どこかで今日頑張った自分を褒めてやろう、今日も練習頑張ったというのがその日の目的になっていた。それを細川先生が教えてくれた。
練習を限界までやって「休ませてほしい」と言ったら「お前、そんなもんか」と言われた。強くなりたいと思い、意地と根性で歯を食いしばって頑張ったら、そこそこできた。自分の限界って自分で作っていた。本当の意味での限界値を見極めてくれたのが細川先生だった。
意識を変えただけで半年後に全日本のチャンピオンになれるかというとそうではない。大学2年になって体重も増え、柔道選手としての体ができてきた。磨き続けてきた背負投が体に染み込み武器になってきたのだ。
オリンピックは1996年のアトランタオリンピック、2000年のシドニーオリンピック、2004年のアテネオリンピックの3大会を経験したが、3回とも私にとっての意味が違った。
アトランタでは「本当に俺がオリンピックで戦っていいのか」と自信がなかった。プレッシャーに負けないように3つのテーマを掲げた。一つは「常に前に出て攻撃すること」、二つ目は「不安を顔に出さない」、三つ目は「最後まで諦めない」だった。ピンチの試合もあったが、冷静に試合ができた。
自分の力のすべてを出し切って金メダルを獲得したとき、すごい感動と大粒の涙が流れた。そのとき、もう一度この感動を味わいたいと思った。
新聞には「田村まさかの銀」「野村まさかの金」と書かれたが、その「まさかの金」を持ってきた(3つの金メダルを掲げると、会場から大きな拍手)。アテネのオリンピックの金メダルは、日本人が獲得した100個目の金メダルになる。
4年に1度というのはアスリートに大きな変化をもたらす。肉体の衰え、精神的疲労もある。柔道は世界のスポーツになっているので、どんどん若い力が生まれてくる。自分の実力を把握しながら、4年後にどういう自分を作り上げるのか、何を武器に戦うのか、どういうテーマで試合に挑むのか。連覇するには周りの変化などを見極めながら、自分の柔道を進化させなくてはならない。
最初のオリンピックはほとんど背負投で勝ったが、今度は世界中から研究される。シドニーでは背負投以外の技で一本を取れるように磨きをかけた。それで胸を張って2連覇を達成することができた。
26歳のときに2連覇し、3連覇を目指すのか、引退をするのか決めなくてはいけなくなった。30歳でオリンピックの金メダルを取った人はいなかったし、ましてや3連覇はいなかった。最強のままで引退するか、続けるのか決める勇気がなく、宙ぶらりんのまま過ごし、あっという間に1年が過ぎた。
答えが出なかったのでアメリカに逃げた。英語の勉強をしながら、キャンパスライフを楽しんだ。だが、楽しいけれど充実感がない。いま辞めたら楽になれるし、周りもほめてくれるだろう。だが、50歳、60歳、70歳になったときになんで挑戦しなかったのかと後悔する自分がいると思った。アメリカの地で3連覇を目指してもう一度頑張ると腹を決めた。
2年間、実践を離れていたのでブランクを埋めるのは大変だと思っていたが、自分の経験から「世界一の作り方」をわかっていたつもりだった。実際、畳の上で実践しても、試合では勝てなかった。復帰1、2戦は惨敗だった。
評価が一変し、周りからも引退を勧められ、落ちるところまで落ちたが、自分はやめなかった。自分の決断が間違いではないというのを証明できるのは自分しかなかった。円形脱毛症ができるほど追い込まれたが、アテネオリンピックまでまだ1年半あった。今勝てないのは、20年以上かけて体に染み込ませた技術が引き出せていないからだ。それを邪魔していたのが、自分のプライドだった。投げられたくないなどのプライドで全力が出せず、守る柔道になっていた。プライドを捨て、弱さを認めることから始め、私はアテネオリンピックの舞台に立つことができた。
アテネで3連覇し、最高のやめ時だったが、その頃になったらサラサラ辞める気がなくなった。いい引き際を求めるよりも、まだまだ柔道をやる情熱があった。努力が続けられるうちは、柔道の現役選手としていろんなものを見ていきたいと思った。辞める理由を自分で探すこともやめた。引退は心の限界、体の限界、続ける環境がなくなったときの3つ。いずれやってくるときまでは、柔道選手としてとことんやっていこうと決めて、40歳までやった。
最後は痛々しかった。最後は主治医から「現役で膝を酷使し続けたアスリートの最終形」と言われた。「ドクターとしてできることはもうない」と言われた。それで引退を決意した。2015年、引退試合を迎えて、1、2回戦では背負投で一本勝ちをすることができた。最後は若い選手から豪快に一本負けした。負けた瞬間、会場から大きな拍手をもらった。負けて拍手をもらったのは初めてだった。
今日の
最低気温6.1度、最高気温14.3度。曇り。

○……コシヒカリマラソンが13日、開かれる。2018年に参加したのが最後。台風で中止になったり、コロナで中止になったりしているうちに、練習不足で走れなくなった。また練習すれば走れるようになるだろうか。講演を聞いた野村さんは2年間のブランクを克服したけれど、4年間のブランクだ。その上、年齢も違う。距離を短くするなどを考えないと。
13日には小出雲交差点から石塚交差点まで、まちなかをランナーが走る。応援だけはしたい。

無料の講演会だが、入場整理券をはーとぴあ中郷か、総合事務所までもらいにいく必要がある。先月下旬に池の平に行った際、もらってきた。会場は満席状態だったが、入場30分前から並んでいたので、前方の席を確保できた。
最初に野村さんの選手時代の活躍ぶりをビデオ上映し、その後に野村さんが登場した。講演の中でもふれていたが、身長164cmと小柄でスマート。おそらく全身に筋肉が付いているのだろうが、とてもオリンピック3連覇した人には見えない。体は小さいが今も全身にエネルギーが満ちている感じがする。柔道一家で育ち、3歳から柔道を始めたが体が小さく、高校生までは平凡な選手だった。だが、大学の監督の的確なアドバイスで強さを増して行く過程の話が面白く、とても興味深かった。
講演の後、色紙が20人に当たる抽選会をしたが、野村さんが出てきて色紙を手渡したり、握手して記念撮影に応じるなど気さくな人柄をみせた。

【講演要旨】(野村さんがかなり早口で、十分にメモができなかったため、かなり省略してあります)
人生の大部分をかけてやってきた柔道を通し、学んだこと、経験した柔道を話したい。
オリンピックで3回金メダルを取ることができたが、決して私は特別な存在ではなかった。子供の頃からいくら頑張っても勝てないし、期待もされていなかった。
祖父が今から85年前、奈良で「豊徳館野村道場」を創設した。その道場で父や叔父も学んだ。私も3歳のときに一つ上の兄とともに柔道を始めた。父は現役時代、それほど名を上げた選手ではなかったが、引退してから天理高校の柔道部監督として高校を何度も日本一に導いた。父の弟はミュンヘンオリンピックの柔道で金メダルを取った。
今振り返ってもねすごく幸せだったのは、祖父の道場で柔道を学べたこと。祖父は、厳しい稽古は必要なく、柔道の基本を学びながら柔道を好きになってくれればいいと。自ずから目標を持って努力するようになると。両親も柔道だけしていればいいというのではなく、いろいろな経験をさせてくれた。小学生時代は柔道以外に週2回水泳をし、学校のクラブ活動はサッカー部、地元のスポーツ少年団では野球をしていた。いろんな経験をする中で、自分なりに一番魅力的だったのが柔道だった。
中学校の部活動は、楽しいだけじゃなく本気で強くなろうと思って柔道を自分で選んだ。それが私の最初の大きな決断だった。中学校は地元ではなく、電車通学で1時間の天理中学だった。入学した時の身長は140cmで、体重が32kgしかなかった。最初の試合が天理市立中学が集まって学年別でする試合で、1回戦で女子に負けてしまった。県大会のベスト16ぐらいが最高で、特別な、みんなが期待するような選手じゃなかった。
父親が監督をしていた名門の天理高校に進学するわけだが、天理高校の柔道部の練習があまりにも厳しいという情報を兄から聞いた。先輩が怖く、寮生活もしんどい。体格も80kg、90kg、中には130kgという人ばかりの中、強い高校の柔道部に入って心と体ついていけるかなという心配があった。
父親は柔道のアドバイスはほとんどしない人だったが、兄には「人の3倍努力する覚悟を持て」と言った。だが、私には「忠宏、無理して柔道せんでいいぞ」だった。兄に対しては期待する言葉だと思う。親父には厳しい言葉で俺の背中を押して期待してほしかった。悔しさを覚え「親父見とけ、俺はいつか強くなって親父が認めるようなすごい選手になってやる」というのが、大きな原動力になった。
天理高校の柔道部に入って、本音を言えば1週間で後悔した。45kgの自分が、80kg、90kgの中に飛び込んだわけだから、毎日毎日ぼろ雑巾のように投げ飛ばされた。柔道の厳しさ、寮生活の厳しさを味わいながら、その時でも逃げだそうとか諦めようっていうのはなかった。柔道を選んだのは自分だから。目標はしっかり持ち、高校3年生でようやく奈良県総体に出場し初めて優勝した。インターハイでは予選リーグで敗退し、1勝すらできなかった。
私の柔道人生が一変したのは天理大学に進学してから。大学に入って最初の試合は関西学生体重別選手権。当時大学には100人の部員がいて、60kg級には12、3人いた。大学1年のときは、校内予選で負けて出場できなかった。だが、大学2年では全日本の学生チャンピオンになり、4年生でオリンピックチャンピオンになった。誰もが想像してなかったぐらい大きな飛躍を遂げた。
自分自身が変わっていくきっかけは、大学2年のときにやってきた。大学には細川伸二という同じ60kg級で84年ロサンゼルス五輪金メダル、88年ソウル五輪銅メダルの実績を持つ一流の指導者がいた。細川先生は練習中に大きな声を出さない。じっと表情を見ている。だからこそ選手の悩みや課題が見えてくる。そしてここぞというタイミングを見極めて、一人ひとりの選手に言葉をかける。
2年生になった時、細川先生が「乱取りするぞ」と。先生は35歳ぐらいだが、引退して5年ほど経つ。乱取りは実践形式で相手と組み合って戦う反復練習で、6分のを12本やる。細川先生を投げたいと向かっていったが、6分過ぎても終わらない。10分ほど経ってお互いがバタバテになったとき、先生が「よし」と。「今までお前が頑張っていた練習というのは与えられた練習。常に残りの時間、本数を気にしながらペース配分して練習していた。それで本当に強くなれると思うか」と言った。そして「本気で自分を変えたいのだったら、目の前の6分で自分を出し切る意識を持って練習をしろ。バテたら休んでいいから、後のことを考えずに練習しろ」と言った。
気づかぬうちに、努力しているだけで満足するように変わっていた。どこかで今日頑張った自分を褒めてやろう、今日も練習頑張ったというのがその日の目的になっていた。それを細川先生が教えてくれた。
練習を限界までやって「休ませてほしい」と言ったら「お前、そんなもんか」と言われた。強くなりたいと思い、意地と根性で歯を食いしばって頑張ったら、そこそこできた。自分の限界って自分で作っていた。本当の意味での限界値を見極めてくれたのが細川先生だった。
意識を変えただけで半年後に全日本のチャンピオンになれるかというとそうではない。大学2年になって体重も増え、柔道選手としての体ができてきた。磨き続けてきた背負投が体に染み込み武器になってきたのだ。
オリンピックは1996年のアトランタオリンピック、2000年のシドニーオリンピック、2004年のアテネオリンピックの3大会を経験したが、3回とも私にとっての意味が違った。
アトランタでは「本当に俺がオリンピックで戦っていいのか」と自信がなかった。プレッシャーに負けないように3つのテーマを掲げた。一つは「常に前に出て攻撃すること」、二つ目は「不安を顔に出さない」、三つ目は「最後まで諦めない」だった。ピンチの試合もあったが、冷静に試合ができた。
自分の力のすべてを出し切って金メダルを獲得したとき、すごい感動と大粒の涙が流れた。そのとき、もう一度この感動を味わいたいと思った。
新聞には「田村まさかの銀」「野村まさかの金」と書かれたが、その「まさかの金」を持ってきた(3つの金メダルを掲げると、会場から大きな拍手)。アテネのオリンピックの金メダルは、日本人が獲得した100個目の金メダルになる。
4年に1度というのはアスリートに大きな変化をもたらす。肉体の衰え、精神的疲労もある。柔道は世界のスポーツになっているので、どんどん若い力が生まれてくる。自分の実力を把握しながら、4年後にどういう自分を作り上げるのか、何を武器に戦うのか、どういうテーマで試合に挑むのか。連覇するには周りの変化などを見極めながら、自分の柔道を進化させなくてはならない。
最初のオリンピックはほとんど背負投で勝ったが、今度は世界中から研究される。シドニーでは背負投以外の技で一本を取れるように磨きをかけた。それで胸を張って2連覇を達成することができた。
26歳のときに2連覇し、3連覇を目指すのか、引退をするのか決めなくてはいけなくなった。30歳でオリンピックの金メダルを取った人はいなかったし、ましてや3連覇はいなかった。最強のままで引退するか、続けるのか決める勇気がなく、宙ぶらりんのまま過ごし、あっという間に1年が過ぎた。
答えが出なかったのでアメリカに逃げた。英語の勉強をしながら、キャンパスライフを楽しんだ。だが、楽しいけれど充実感がない。いま辞めたら楽になれるし、周りもほめてくれるだろう。だが、50歳、60歳、70歳になったときになんで挑戦しなかったのかと後悔する自分がいると思った。アメリカの地で3連覇を目指してもう一度頑張ると腹を決めた。
2年間、実践を離れていたのでブランクを埋めるのは大変だと思っていたが、自分の経験から「世界一の作り方」をわかっていたつもりだった。実際、畳の上で実践しても、試合では勝てなかった。復帰1、2戦は惨敗だった。
評価が一変し、周りからも引退を勧められ、落ちるところまで落ちたが、自分はやめなかった。自分の決断が間違いではないというのを証明できるのは自分しかなかった。円形脱毛症ができるほど追い込まれたが、アテネオリンピックまでまだ1年半あった。今勝てないのは、20年以上かけて体に染み込ませた技術が引き出せていないからだ。それを邪魔していたのが、自分のプライドだった。投げられたくないなどのプライドで全力が出せず、守る柔道になっていた。プライドを捨て、弱さを認めることから始め、私はアテネオリンピックの舞台に立つことができた。
アテネで3連覇し、最高のやめ時だったが、その頃になったらサラサラ辞める気がなくなった。いい引き際を求めるよりも、まだまだ柔道をやる情熱があった。努力が続けられるうちは、柔道の現役選手としていろんなものを見ていきたいと思った。辞める理由を自分で探すこともやめた。引退は心の限界、体の限界、続ける環境がなくなったときの3つ。いずれやってくるときまでは、柔道選手としてとことんやっていこうと決めて、40歳までやった。
最後は痛々しかった。最後は主治医から「現役で膝を酷使し続けたアスリートの最終形」と言われた。「ドクターとしてできることはもうない」と言われた。それで引退を決意した。2015年、引退試合を迎えて、1、2回戦では背負投で一本勝ちをすることができた。最後は若い選手から豪快に一本負けした。負けた瞬間、会場から大きな拍手をもらった。負けて拍手をもらったのは初めてだった。
今日の足跡
最低気温6.1度、最高気温14.3度。曇り。

○……コシヒカリマラソンが13日、開かれる。2018年に参加したのが最後。台風で中止になったり、コロナで中止になったりしているうちに、練習不足で走れなくなった。また練習すれば走れるようになるだろうか。講演を聞いた野村さんは2年間のブランクを克服したけれど、4年間のブランクだ。その上、年齢も違う。距離を短くするなどを考えないと。
13日には小出雲交差点から石塚交差点まで、まちなかをランナーが走る。応援だけはしたい。
11日22時32分=2022年=
年に1度のエコスタで巨人完敗
昨夜は新潟市のハードオフ・エコスタジアムに横浜DeNA-読売巨人戦を見に行ってきた。4連敗中で首位陥落した巨人が覇気なく、まったくいいところがないゲームだった。これでなんと5連敗。佐渡出身の菊池投手の登板が期待されたが、マウンドに登ることはなかった。

↓ゲートからの入場。ここで検温と消毒

読売新聞によると、観客数は1万6352人で、内野席はほとんど埋まっていた。県内で巨人の一軍公式戦が開催されるのは2019年9月以来だという。3塁側内野席の最前列で見たが、高さ2mほどのネットがあって、すごく見づらい。双眼鏡で見てもピントが合わない。かえって2階席のほうが良かったかも。
2018年4月17日にエコスタで開かれた同じカード横浜DeNA-読売巨人戦には、上越市出身の飯塚悟史投手が登板した。このときは6回途中まで投げ、勝ち投手の権利を得たが、2番手の投手が打たれて初勝利を逃した。残念だったが、応援は盛り上がり、エコスタが沸き返ったことを覚えている。

今回はコロナ禍の中、マスクをしての応援である。声は出さず、拍手だけなので、なかなか盛り上がらない。その上、試合内容がつまらなかった。
↓1-3で巨人が敗れた。4安打ではしょうがない

負けるにしても、見せ場がなかった。巨人は1回裏、先発の山崎がいきなり連打を浴び、犠飛と2点タイムリーでいきなり3点を背負う苦しいピッチング。3回に丸の内野ゴロの間に1点をあげるのがやっと。2点を負う9回も山崎に3人であっさり凡退。岡本ら中軸が無安打では勝てるはずがない。
この季節、エコスタは寒い。これまで寒い思いをしたので、厚いブルゾンの下にヒーター付きのベストを着込んででかけたので、ぽっかぽっかだった。半袖姿の人を何人か見かけたが、風邪をひかなかっただろうか。
さらに、球場近くのホテルで泊まったので、ビールを飲みながら観戦できた。暖かい服装でビールを飲むというのが一番の寒さ対策だった。
今日の
最低気温8.2度、最高気温24.7度。晴れのち曇り。
○……ソフトバンクの東浜巨投手が西武を相手に、ノーヒットノーラン。2点の援護を貰い、四死球2つの快挙となった。今年は完全試合あり、ノーヒットノーランありの珍しい年だ。
一方、米大リーグではエンゼルスのリード・デトマーズ投手がノーヒットノーランを達成。この日は試合前に大谷のMVP授賞式。大谷は2安打を放ち、ともに素晴らしい一日になった。

↓ゲートからの入場。ここで検温と消毒

読売新聞によると、観客数は1万6352人で、内野席はほとんど埋まっていた。県内で巨人の一軍公式戦が開催されるのは2019年9月以来だという。3塁側内野席の最前列で見たが、高さ2mほどのネットがあって、すごく見づらい。双眼鏡で見てもピントが合わない。かえって2階席のほうが良かったかも。
2018年4月17日にエコスタで開かれた同じカード横浜DeNA-読売巨人戦には、上越市出身の飯塚悟史投手が登板した。このときは6回途中まで投げ、勝ち投手の権利を得たが、2番手の投手が打たれて初勝利を逃した。残念だったが、応援は盛り上がり、エコスタが沸き返ったことを覚えている。

今回はコロナ禍の中、マスクをしての応援である。声は出さず、拍手だけなので、なかなか盛り上がらない。その上、試合内容がつまらなかった。
↓1-3で巨人が敗れた。4安打ではしょうがない

負けるにしても、見せ場がなかった。巨人は1回裏、先発の山崎がいきなり連打を浴び、犠飛と2点タイムリーでいきなり3点を背負う苦しいピッチング。3回に丸の内野ゴロの間に1点をあげるのがやっと。2点を負う9回も山崎に3人であっさり凡退。岡本ら中軸が無安打では勝てるはずがない。
この季節、エコスタは寒い。これまで寒い思いをしたので、厚いブルゾンの下にヒーター付きのベストを着込んででかけたので、ぽっかぽっかだった。半袖姿の人を何人か見かけたが、風邪をひかなかっただろうか。
さらに、球場近くのホテルで泊まったので、ビールを飲みながら観戦できた。暖かい服装でビールを飲むというのが一番の寒さ対策だった。
今日の足跡
最低気温8.2度、最高気温24.7度。晴れのち曇り。
○……ソフトバンクの東浜巨投手が西武を相手に、ノーヒットノーラン。2点の援護を貰い、四死球2つの快挙となった。今年は完全試合あり、ノーヒットノーランありの珍しい年だ。
一方、米大リーグではエンゼルスのリード・デトマーズ投手がノーヒットノーランを達成。この日は試合前に大谷のMVP授賞式。大谷は2安打を放ち、ともに素晴らしい一日になった。
11日21時04分=2022年=
平野歩夢選手の金メダルに感動!
今日は午前中は男子スノーボードハーフパイプの決勝を見るため、予定を何も入れず、SNSのチェックも早めに済ませてテレビの前に陣取った。スポーツは生放送で見ることが大事。結果が分かってから見るのでは感動が半減してしまう。

昨日は妙高市出身の冨田せな選手が、日本女子選手として初めてのメダルとなる銀メダルを獲得し、歴史に名を刻んだ。初出場で妹のるき選手も5位入賞を果たした。妙高市役所の前を通ったら、銅メダルと入賞を称える懸垂幕が出ていた。
さて、村上市出身の兄弟、平野歩夢選手と弟の海祝選手はともに決勝に進んだ。中でも歩夢選手は金メダル候補だ。
1本目、海祝選手が持ち味の高さを生かし3位につけた。兄の背中を見て練習した成果が出ていて、素晴らしかった。2本目、3本目はだめだったが、果敢に挑戦する姿を見せてくれた。
一方、歩夢選手は1本目に縦3回転・横4回転の超大技「トリプルコーク1440」を五輪で史上初めて成功させた。予選では封印していた史上最高難易度の構成だ。1本目は最後まで滑りきれなかったが、2本目は成功。だが点数が上がらず、2位止まり。
↓金メダルを決めた3本目

そして最後の3本目。2本目と同じ構成だったが、高さがありルーティンを完璧にこなした。最高難度の技なのにのびのびとしていて、余裕があった。今度は文句ない96.00でオーストラリア選手を逆転し、金メダルに輝いた。
↓目標にしていたショーン・ホワイト選手と

↓試合後のインタビュー

優勝インタビューで、2本目の点数が伸びなかった怒りをバネにしたと話していた。マイナス要素を前向きに変えるメンタルの強さを感じた。
今頃、地元の村上市では大騒ぎだろうな。次の五輪では兄弟でのメダルが期待される。
今日の
最低気温-0.8度、最高気温5.7度。曇り。
○……「トリプルコーク」ってなんだろう。コカ・コーラ3本ではないことは分かる(笑)。コークはコークスクリュー(corkscrew=栓抜き)の略で、縦回転のこと。コークって「コルク」のことだった。ダブルコークなら縦2回転。実際は縦、横を組み合わせ、斜め軸で回るため「ダブルコーク1260」(縦2回転、横3回転半)などと表現される。数字は角度で、1260は、360度×3.5である。
今回平野歩夢選手が飛んだのは「トリプルコーク1440」である。縦3回転、横4回転というほかに誰もできない技だ。
「ダブルコーク1080」を初めて成功させたのは、今回で引退を表明したレジェンド、アメリカのショーン・ホワイト選手である。それを進化させたのが平野歩夢選手であることは間違いない。

昨日は妙高市出身の冨田せな選手が、日本女子選手として初めてのメダルとなる銀メダルを獲得し、歴史に名を刻んだ。初出場で妹のるき選手も5位入賞を果たした。妙高市役所の前を通ったら、銅メダルと入賞を称える懸垂幕が出ていた。
さて、村上市出身の兄弟、平野歩夢選手と弟の海祝選手はともに決勝に進んだ。中でも歩夢選手は金メダル候補だ。
1本目、海祝選手が持ち味の高さを生かし3位につけた。兄の背中を見て練習した成果が出ていて、素晴らしかった。2本目、3本目はだめだったが、果敢に挑戦する姿を見せてくれた。
一方、歩夢選手は1本目に縦3回転・横4回転の超大技「トリプルコーク1440」を五輪で史上初めて成功させた。予選では封印していた史上最高難易度の構成だ。1本目は最後まで滑りきれなかったが、2本目は成功。だが点数が上がらず、2位止まり。
↓金メダルを決めた3本目

そして最後の3本目。2本目と同じ構成だったが、高さがありルーティンを完璧にこなした。最高難度の技なのにのびのびとしていて、余裕があった。今度は文句ない96.00でオーストラリア選手を逆転し、金メダルに輝いた。
↓目標にしていたショーン・ホワイト選手と

↓試合後のインタビュー

優勝インタビューで、2本目の点数が伸びなかった怒りをバネにしたと話していた。マイナス要素を前向きに変えるメンタルの強さを感じた。
今頃、地元の村上市では大騒ぎだろうな。次の五輪では兄弟でのメダルが期待される。
今日の足跡
最低気温-0.8度、最高気温5.7度。曇り。
○……「トリプルコーク」ってなんだろう。コカ・コーラ3本ではないことは分かる(笑)。コークはコークスクリュー(corkscrew=栓抜き)の略で、縦回転のこと。コークって「コルク」のことだった。ダブルコークなら縦2回転。実際は縦、横を組み合わせ、斜め軸で回るため「ダブルコーク1260」(縦2回転、横3回転半)などと表現される。数字は角度で、1260は、360度×3.5である。
今回平野歩夢選手が飛んだのは「トリプルコーク1440」である。縦3回転、横4回転というほかに誰もできない技だ。
「ダブルコーク1080」を初めて成功させたのは、今回で引退を表明したレジェンド、アメリカのショーン・ホワイト選手である。それを進化させたのが平野歩夢選手であることは間違いない。
20日20時27分=2021年=
青田南葉山に登ってきた
今日は秋晴れの予報だったので、南葉山に登ることにした。昼頃の到着予定から逆算すると、10時30頃に登頂を開始すればいい。朝食後に支度を始め、家を出発した。
↓キャンプ場入り口

青田から南葉山キャンプ場へ向かう。一般に「南葉山」と呼んでいるが、北から青田難波(南葉)山、籠町南葉山、猪野山南葉山と呼んでいる。それを総称して「南葉山」と呼ぶ。登る予定なのは、 最も標高が高い青田難波山(949m)である。
出発点の南葉山キャンプ場は、晴天に恵まれ眺めが素晴らしい。オートキャンプの人がたくさんいた。


さて、キャンプ場の池近くに案内図があり、コースの説明が書いてあった。「木落し坂コース」「明神沢コース」「湯ったり村コース」の3コースと所要時間が書かれている。
これによると「木落し坂コース」は往路、「明神沢コース」は復路となっており、「湯ったり村コース」は復路の明神峠で分かれるコースになっている。青田南葉山から籠町南葉山への縦走コースは書かれていない。妙高市のエリアになるためか。
南葉山キャンプ場の標高は479m。青田南葉山は949mなので、標高差は470mある。初心者向けの山だが、標高差を考えるとなめてはいけない。
さて、午前10時20分に出発した。地図上にGPSで位置情報が出るアプリ「YAMAP」を起動した。コースを外れると分かるので、遭難防止に役立つ。休憩ごとに現在地を確認すれば安心だ。
↓YAMAP

↓歩き始めてすぐにある分岐

↓ここも分岐

歩き始めて間もない第3キャンプ場付近で「木落し坂コース」と「明神沢コース」の分岐があった。表コースである「木落し坂コース」に進む。

↓水場。冷たくておいしい

↓展望台へ行く分岐。すぐ近くなので行ったほうがいい

↓見晴台。米山が見える

五合目(標高626m)、六合目(標高690m)、七合目(標高810m)と進む。六合目には水場があった。米山よりも急坂ではないが、けっこう長くてきつい。七合目に見晴台へ行く分岐がある。2分ほど歩くだけ。南葉山は見晴らしがある所が少ないので、ぜひ行くべきだ。
↓八合目

↓九合目

↓山頂

↓南葉神社の祠

↓山頂に咲いていたリンドウ

七合目からはなだらかな坂が多く、楽になる。九合目(標高868m)を過ぎると、まもなく山頂。午後0時6分に到着した。山頂は展望がなく、日陰もないので昼食を食べるだけ。
山頂には石ころが積んであるが、宮越市長時代に「展望台を作ろう」という運動が始まり、登山者が持ってきたものだ。山頂の展望台はどうなったのだろうか。山頂には「南葉神社」の祠があった。
復路は「明神沢コース」へ。少し急坂を下るが、すぐになだらかになる。鎖場が3か所あるが、なだらかな坂が多い。急坂が多い「木落し坂コース」を帰るより格段に楽だと思う。

↓鎖場

「明神峠」で湯ったり村へ行く道との分岐がある。その後は、迷うような場所もない。YAMAPで時々確認すれば安心だ。

午後2時15分頃、無事に南葉山キャンプ場に到着した。頸城平野の展望が素晴らしい。南葉ロッジでアイスクリームを買って食べた。五臓六腑にしみ渡った。
↓青田南葉山登山の行程

今日の
最低気温18.5度、最高気温28.1度。快晴
○……知人がオリジナル曲「雨の日の街角」をYouTubeで発表した。昭和歌謡を思わせるとてもいい曲だと思う。妙高市発の歌謡曲として、多くの人に聞いてほしい。
↓URL
https://youtu.be/db2b81I1Gtk
↓キャンプ場入り口

青田から南葉山キャンプ場へ向かう。一般に「南葉山」と呼んでいるが、北から青田難波(南葉)山、籠町南葉山、猪野山南葉山と呼んでいる。それを総称して「南葉山」と呼ぶ。登る予定なのは、 最も標高が高い青田難波山(949m)である。
出発点の南葉山キャンプ場は、晴天に恵まれ眺めが素晴らしい。オートキャンプの人がたくさんいた。


さて、キャンプ場の池近くに案内図があり、コースの説明が書いてあった。「木落し坂コース」「明神沢コース」「湯ったり村コース」の3コースと所要時間が書かれている。
これによると「木落し坂コース」は往路、「明神沢コース」は復路となっており、「湯ったり村コース」は復路の明神峠で分かれるコースになっている。青田南葉山から籠町南葉山への縦走コースは書かれていない。妙高市のエリアになるためか。
南葉山キャンプ場の標高は479m。青田南葉山は949mなので、標高差は470mある。初心者向けの山だが、標高差を考えるとなめてはいけない。
さて、午前10時20分に出発した。地図上にGPSで位置情報が出るアプリ「YAMAP」を起動した。コースを外れると分かるので、遭難防止に役立つ。休憩ごとに現在地を確認すれば安心だ。
↓YAMAP

↓歩き始めてすぐにある分岐

↓ここも分岐

歩き始めて間もない第3キャンプ場付近で「木落し坂コース」と「明神沢コース」の分岐があった。表コースである「木落し坂コース」に進む。

↓水場。冷たくておいしい

↓展望台へ行く分岐。すぐ近くなので行ったほうがいい

↓見晴台。米山が見える

五合目(標高626m)、六合目(標高690m)、七合目(標高810m)と進む。六合目には水場があった。米山よりも急坂ではないが、けっこう長くてきつい。七合目に見晴台へ行く分岐がある。2分ほど歩くだけ。南葉山は見晴らしがある所が少ないので、ぜひ行くべきだ。
↓八合目

↓九合目

↓山頂

↓南葉神社の祠

↓山頂に咲いていたリンドウ

七合目からはなだらかな坂が多く、楽になる。九合目(標高868m)を過ぎると、まもなく山頂。午後0時6分に到着した。山頂は展望がなく、日陰もないので昼食を食べるだけ。
山頂には石ころが積んであるが、宮越市長時代に「展望台を作ろう」という運動が始まり、登山者が持ってきたものだ。山頂の展望台はどうなったのだろうか。山頂には「南葉神社」の祠があった。
復路は「明神沢コース」へ。少し急坂を下るが、すぐになだらかになる。鎖場が3か所あるが、なだらかな坂が多い。急坂が多い「木落し坂コース」を帰るより格段に楽だと思う。

↓鎖場

「明神峠」で湯ったり村へ行く道との分岐がある。その後は、迷うような場所もない。YAMAPで時々確認すれば安心だ。

午後2時15分頃、無事に南葉山キャンプ場に到着した。頸城平野の展望が素晴らしい。南葉ロッジでアイスクリームを買って食べた。五臓六腑にしみ渡った。
↓青田南葉山登山の行程

今日の足跡
最低気温18.5度、最高気温28.1度。快晴
○……知人がオリジナル曲「雨の日の街角」をYouTubeで発表した。昭和歌謡を思わせるとてもいい曲だと思う。妙高市発の歌謡曲として、多くの人に聞いてほしい。
↓URL
https://youtu.be/db2b81I1Gtk
11日22時46分=2019年=
台風19号の影響でコシヒカリマラソン中止
↓ひまわりの画像。10月11日午後3時

台風19号が近づいてきた影響で、新潟県内でもイベントの中止が相次いでいる。マラソン大会では、出場予定だったコシヒカリマラソンが中止になってしまった。新潟シティマラソンも中止なので仕方がない。
昨年はえちご・くびき野100kmマラソンが台風の影響で急きょ中止になったが、同じ日のコシヒカリマラソンは実施。この判断が妥当だったかどうか、批判を集めた。100kmが16000円という高額の参加費だけに、参加者はくやしかっただろう。
「東北・みやぎ復興マラソン」「いわて北上マラソン大会」「うるぎトライアルRUN」「北見ハーフマラソン大会」なども中止になっている。
それにしても、コシヒカリマラソンが中止になったのは、記憶にない。50回目の節目だったのに、残念。せっかくゲストに厚切りジェイソンを呼んだのに。
一番ダメージがあったのは長岡市の「米百俵フェス」だろうな。きゃりーぱみゅぱみゅ、いきものがたりなど出演する大規模なフェスで、大きなステージを設営していた。アーティストが来られないおそれもあるし、雨風が強ければ観客もたいへんだ。
4000円の参加費は戻ってこないが、事務局へ行けば、記念Tシャツと参加賞の米をもらえる。遠方の人は送るそうだ。今まで申し込みをしていたマラソン大会が中止になったのは初めて。
今日の足跡
最低気温19.1度、最高気温27.2度。曇り。

○……日本とエジプトのワールドカップ男子バレーの戦いはすさまじかった。フルセットの末、3-2で日本が4連勝。我慢強く、よく粘った。昨日のロシア戦もすごかったけれど、今日も感動した。42年ぶりのメダルなるか。次はイラン戦。

○……上越地域振興局1階にある食堂「おりづる」。10月からの消費増税で、値段が上がった。これまで430円だったランチが440円になった。

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