29日20時06分=2018年=
映画「母 小林多喜二の母の物語」
【評】★5つが最高、☆は半分
★★★☆
「蟹工船」で知られるプロレタリア文学作家、小林多喜二は1903年10月13日、秋田県北秋田郡下川沿村川口(現大館市)に、父末松、母セキの二男として生まれた。
↓小林多喜二生誕の地

2010年11月、太宰治の故郷、青森県金木町に向けて車を走らせている途中、「小林多喜二生誕の地」の看板が目に入り、立ち寄った。想像以上の立派な碑だったので驚いた。
家は貧しい自作兼小作農だったこともあって、1907年、多喜二4歳の年の暮れ、父方の伯父慶義を頼って、一家は北海道小樽へ移住した。生誕の地には生まれてから4年間いたことになる。多喜二は覚えていないはずだが。

今日、上越映画鑑賞会の第199回例会として上映した映画「母 小林多喜二の母の物語」は、小林多喜二の生き方というよりも、小林多喜二をまっすぐで正直な性格に育てた母にスポットを当てた映画だ。
中でも脱走した労働者をかくまったり、多喜二がボーナスをはたいて遊郭街で働くタミ(趣里)を受け出そうとするが、セキは職業に偏見を持たず受け入れる。当時の女性としては、「長い物には巻かれろ」ではない、自分なりのしっかりした考えを持っていた。
まさに「この親にしてこの子あり」である。
小説を書くため上京した多喜二(塩谷瞬)は、治安維持法下で警察に追われ、母(寺島しのぶ)と連絡を取ることもできない。1933年2月20日、特高警察に捕らえられた多喜二は刑事(佐野史郎)の尋問を受け、「お前が書いた『一九二八年三月十五日』に警察に拷問される場面がある。同じことをしてやろう」と言われ、残忍な拷問を受けた末に29歳の若さで絶命。二度と小説が書けないように10本の指全部が折られていた。
拷問を受けるシーンと、息子が帰ってくることを信じて、大好物のおはぎを作る母の場面の対比が素晴らしい。
息子の傷だらけの遺体と対面した母が悲痛な表情で「もう一度たたねぇか」と叫ぶ場面がクライマックスだが、その後はキリスト教の話に移っていってしまう。
三浦綾子原作なので仕方がないのだが、多喜二の死後、セキは教会に誘われ、イエスの死について話を聞かされる。悪いことをしていないのに殺されたイエスと多喜二の姿を重ね合わせるのだ。
今日午前10時からの上映に行ったのだが、館内は2階までお客さんでいっぱいで驚いた。共産党やキリスト教の関係者の人が多かったのだろう。組織の動員力はすごいものだ。
テーマがだんだんずれていったのも気になるが、タミや、多喜二が捕まる前後に生活していた女性の描き方が中途半端で、気になって仕方がない。
↓公式サイト
http://www.gendaipro.com/haha/
↓予告編
今日の足跡
最低気温26.0度、最高気温38.3度。なんと38度超え。体温よりも高い南寄りの熱風が吹いていた。午後6時になっても、気温はまだ35度である。今夜も熱帯夜(最低気温25度以上)は間違いない。いま、JCVを見たら、八坂神社のおせん米奉納をやっていた。この暑さの中、汗だくになって太鼓をたたいている。祭りはさらに熱いのだ。
○……週刊ポストの記事によると、オーストラリア州政府がホームページに、女性器の写真が掲載されたNPOのサイトへのリンクを掲載した。性器の形に悩む女性が多く、外科手術をする人が絶えないため、いろいろな形の女性器があることを知らせるためだという。
「labialibrary」というサイトなので検索するとすぐに出てくる(PICS OF LABIAをクリックし、OK to viewを押す)。掲載されている女性器の写真は20人分。正面からと真下からの写真がある。驚くほどいろいろな形があるが、これはすべて個人差だという。見てもコーフンするような写真じゃないので、念のため。

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