24日20時00分=2022年=
太宰治文学散歩「三鷹」③ 太宰が渡った跨線橋
三鷹駅から500mほど離れた場所にある“撮り鉄スポット”として有名な跨線橋「三鷹跨線人道橋」は、太宰治が渡った場所であり、お気に入りだったという。その橋は建設から92年が経過し、JR東日本は撤去方針を三鷹市に通知した。三鷹市は一旦、方針を受け入れたが、橋桁や階段の一部を保存することになったと報じられた。
↓太宰が通った跨線橋

↓太宰が写っている写真

↓上から見た跨線橋。この先500mに三鷹駅がある

↓太宰ゆかりの地を示すプレート。ひび割れている

跨線橋にある4つの階段のうち、太宰が使ったことが写真で確認されている南東の階段を保存する方向だという。だが、完全な形で見られる時間は、もうわずかだ。
今回、太宰が利用した酒店、うなぎ屋、風呂屋などの跡も巡ったが、プレート1枚があるだけで、当時の面影がまったくない。とにかく実際に太宰が渡った跨線橋が、一部でも残るのは素晴らしい。
今回、太宰の痕跡を歩いて回った場所に設置されていたプレートの写真を掲載したい。
「三鷹 太宰治マップ」に、ゆかりの場所のくわしい住所が掲載されており、スマホのGoogleマップを頼りにたどり着くことができた。スマホとマップなしでは無理だっただろう。
行く先々で太宰ファンがマップ片手にゆかりの地巡りをしていて、先に見つけた人が「ここにあった」と合図してくれたこともあった。太宰ファン同士でふれあえたことが、いい体験になった。
◇中鉢家跡(下連雀3-43-32)
現:藤和シティスクエア三鷹駅前
1946(昭和21)年11月、疎開から戻った太宰は、三鷹駅前郵便局のはす向かいに仕事場を借りた。ここで「ヴィヨンの妻」などを執筆。「朝」はこの部屋が舞台だという。

◇うなぎ若松屋跡(下連雀3-35-8)
太宰が編集者との打ち合わせ場所にしていた馴染みの屋台。品川用水(現:さくら通り)沿いにあった。

◇田辺肉店離れ跡(下連雀3-27-8 ムサシ三鷹ビル1F)
現:サイゼリア三鷹駅南口店
1947(昭和22)年4月から、「斜陽」を書き継ぐために、田辺肉店のアパートを借りた。この店を舞台にして「犯人」が書かれた。

◇太宰横丁(下連雀3-27-8 ムサシ三鷹ビルの東側の通り)
小さな飲食店が軒を並べていて、太宰が通ったことで通称ができた。行きつけの「喜久屋」(小料理屋)が、この通りの三鷹駅近くにあった。狭い路地である。
↓太宰横丁

◇野川家跡(下連雀3-15-15 イル・デ・パン1F)
現:永塚葬儀社
山崎富栄と親しくなった1947(昭和22)年9月頃から、彼女の下宿先の野川家2階も仕事場にしていた。太宰最後の日、ここから2人で玉川上水へ向かった。

◇千草跡(下連雀3-24-3) 現:Brillia MITAKA
1947(昭和22)年7月から小料理屋千草の2階も仕事場にしていた。

今日の
最低気温25.0度、最高気温36.7度。曇り。12時34分に36.7度を記録。この夏初めての猛暑日となった。
○……NHKの朝ドラ「ちむどんどん」の感動的なエピソード。暢子はレストラン「フォンターナ」のシェフ代行がうまくいかず、スタッフは思うように動いてくれない。兄の賢秀から「女だとなめられてはいけない」と言われ、命令口調で指示するが、かえって反発を買う。
骨折で入院中のシェフ二ツ橋にアドバイスを求めに行ったところ、二ツ橋は「暢子らしさを大事に」と答える。暢子をシェフ代行に推したのは二ツ橋だったのだ。
「暢子らしさとはなにか」。その答えを求め、沖縄の母に電話する。「うちのいいとこってなに?」。「ありがとうとごめんなさいを大きな声で言えるところが、暢子の一番いいところよ」。
暢子はついに答えを見つけたのだった。母の偉大さを感じた。
仲間が10円玉をかき集め、公衆電話をかけている暢子を支える場面も良かった。学生時代、10円玉を公衆電話の上に積み上げて家に電話したことを思い出した。あの頃の市外通話は高かった。通話が安くなる夜を待って電話したが、それでも10円玉がどんどん減っていった。
↓太宰が通った跨線橋

↓太宰が写っている写真

↓上から見た跨線橋。この先500mに三鷹駅がある

↓太宰ゆかりの地を示すプレート。ひび割れている

跨線橋にある4つの階段のうち、太宰が使ったことが写真で確認されている南東の階段を保存する方向だという。だが、完全な形で見られる時間は、もうわずかだ。
今回、太宰が利用した酒店、うなぎ屋、風呂屋などの跡も巡ったが、プレート1枚があるだけで、当時の面影がまったくない。とにかく実際に太宰が渡った跨線橋が、一部でも残るのは素晴らしい。
今回、太宰の痕跡を歩いて回った場所に設置されていたプレートの写真を掲載したい。
「三鷹 太宰治マップ」に、ゆかりの場所のくわしい住所が掲載されており、スマホのGoogleマップを頼りにたどり着くことができた。スマホとマップなしでは無理だっただろう。
行く先々で太宰ファンがマップ片手にゆかりの地巡りをしていて、先に見つけた人が「ここにあった」と合図してくれたこともあった。太宰ファン同士でふれあえたことが、いい体験になった。
◇中鉢家跡(下連雀3-43-32)
現:藤和シティスクエア三鷹駅前
1946(昭和21)年11月、疎開から戻った太宰は、三鷹駅前郵便局のはす向かいに仕事場を借りた。ここで「ヴィヨンの妻」などを執筆。「朝」はこの部屋が舞台だという。

◇うなぎ若松屋跡(下連雀3-35-8)
太宰が編集者との打ち合わせ場所にしていた馴染みの屋台。品川用水(現:さくら通り)沿いにあった。

◇田辺肉店離れ跡(下連雀3-27-8 ムサシ三鷹ビル1F)
現:サイゼリア三鷹駅南口店
1947(昭和22)年4月から、「斜陽」を書き継ぐために、田辺肉店のアパートを借りた。この店を舞台にして「犯人」が書かれた。

◇太宰横丁(下連雀3-27-8 ムサシ三鷹ビルの東側の通り)
小さな飲食店が軒を並べていて、太宰が通ったことで通称ができた。行きつけの「喜久屋」(小料理屋)が、この通りの三鷹駅近くにあった。狭い路地である。
↓太宰横丁

◇野川家跡(下連雀3-15-15 イル・デ・パン1F)
現:永塚葬儀社
山崎富栄と親しくなった1947(昭和22)年9月頃から、彼女の下宿先の野川家2階も仕事場にしていた。太宰最後の日、ここから2人で玉川上水へ向かった。

◇千草跡(下連雀3-24-3) 現:Brillia MITAKA
1947(昭和22)年7月から小料理屋千草の2階も仕事場にしていた。

今日の足跡
最低気温25.0度、最高気温36.7度。曇り。12時34分に36.7度を記録。この夏初めての猛暑日となった。
○……NHKの朝ドラ「ちむどんどん」の感動的なエピソード。暢子はレストラン「フォンターナ」のシェフ代行がうまくいかず、スタッフは思うように動いてくれない。兄の賢秀から「女だとなめられてはいけない」と言われ、命令口調で指示するが、かえって反発を買う。
骨折で入院中のシェフ二ツ橋にアドバイスを求めに行ったところ、二ツ橋は「暢子らしさを大事に」と答える。暢子をシェフ代行に推したのは二ツ橋だったのだ。
「暢子らしさとはなにか」。その答えを求め、沖縄の母に電話する。「うちのいいとこってなに?」。「ありがとうとごめんなさいを大きな声で言えるところが、暢子の一番いいところよ」。
暢子はついに答えを見つけたのだった。母の偉大さを感じた。
仲間が10円玉をかき集め、公衆電話をかけている暢子を支える場面も良かった。学生時代、10円玉を公衆電話の上に積み上げて家に電話したことを思い出した。あの頃の市外通話は高かった。通話が安くなる夜を待って電話したが、それでも10円玉がどんどん減っていった。
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