03日15時15分=2022年=
映画「峠」ロケ地巡り①
長岡藩の家老、河井継之助を描いた映画『峠 最後のサムライ』は、本県の中・下越でロケが行われた。映画館に置いてあった「ロケ地ガイド」を見たら、矢も盾もたまらず、ロケ地巡りに行ってきた。なお、ロケ地マップは小千谷市が独自に作ったものがあり、この2種類があれば万全だ。
↓2種類のロケ地マップ

↓ロケ地は中、下越の広い範囲に点在している

関連の場所を並べて書いているので、実際に巡った順序とは違うのでご了解を。
◇河井継之助記念館(長岡市長町1丁目甲1675-1)0258-30-1525
まずは長岡市の河井継之助記念館へ。映画公開を記念した企画展をやっており、入り口に手動機関銃「ガトリング砲」の実物大模型が鎮座していた。1分間に200~300発の連射が可能だという。1門3000両で横浜の貿易商から2門購入した。民と故郷を守る武装中立のための最新兵器だったが、誰も扱える兵がおらず、家老自ら操作した場面が滑稽だった。企画展内は撮影禁止だった。
↓河井継之助記念館。河井邸跡の碑があった

↓河井継之助像

↓ガトリング砲のレプリカ

↓ロケ地の紹介


◇司馬遼太郎「峠」文学碑(小千谷市高梨の「越の大橋」のたもと)
ロケ地ではないが、見逃せないのは小千谷市の司馬遼太郎文学碑。信濃川の対岸、激戦地の榎峠や朝日山に向けて建つ碑には、小説「峠」の一文が直筆で刻まれている。

↓自筆の碑文

◇八丁沖古戦場パーク(長岡市富島町)
次は八丁沖古戦場パークへ。長岡城奪回のため、全軍が腰まで沼に埋まって夜間に潜行するクライマックスの舞台だが、現在は田んぼとなっていて石碑があるのみ。石碑のある場所がわからず、たどり着くのに苦労した。当時は百束、大黒あたりから、南は富島、亀貝に至る東西3km、南北5kmに沼地が広がっていたという。不意を突かれた新政府軍は、必死に防戦したが昼すぎには勝敗は明らかとなり、長岡城の奪回に成功したのだった。映画の場面と重ね合わせ、想像するだけだ。

◇佐潟水鳥・湿地センター(新潟市赤塚5404-1)
八丁沖の実際の撮影地は新潟市西区の佐潟である。立派な自然公園だった。下潟と芝生広場の二か所で撮影され、拠点施設「佐潟水鳥・湿地センター」にはロケの写真が展示されていた。慶応4年(1868)7月24日午後7時ごろ、長岡城奪還のため、夜間から600人が腰まで水に埋まって潜航したクライマックス場面。多くのエキストラが参加して撮影した下潟は歩いて30分ほどかかるため、パスした。芝生広場は10分ほど。
↓佐潟水鳥・湿地センターに展示されていたロケの写真

↓佐潟

↓ロケが行われた芝生広場

今日の
最低気温23.1度、最高気温33.3度。曇り。昼頃一時雨。午後からずっと雷が鳴っている。

○…… 若いころに読んだ司馬遼太郎の小説「峠」。上巻が597ページ、下巻が548ページの長編だった。今は上、中、下巻に分かれているようだ。読み返そうとおもったけれど、字が小さくて断念した。
↓2種類のロケ地マップ

↓ロケ地は中、下越の広い範囲に点在している

関連の場所を並べて書いているので、実際に巡った順序とは違うのでご了解を。
◇河井継之助記念館(長岡市長町1丁目甲1675-1)0258-30-1525
まずは長岡市の河井継之助記念館へ。映画公開を記念した企画展をやっており、入り口に手動機関銃「ガトリング砲」の実物大模型が鎮座していた。1分間に200~300発の連射が可能だという。1門3000両で横浜の貿易商から2門購入した。民と故郷を守る武装中立のための最新兵器だったが、誰も扱える兵がおらず、家老自ら操作した場面が滑稽だった。企画展内は撮影禁止だった。
↓河井継之助記念館。河井邸跡の碑があった

↓河井継之助像

↓ガトリング砲のレプリカ

↓ロケ地の紹介


◇司馬遼太郎「峠」文学碑(小千谷市高梨の「越の大橋」のたもと)
ロケ地ではないが、見逃せないのは小千谷市の司馬遼太郎文学碑。信濃川の対岸、激戦地の榎峠や朝日山に向けて建つ碑には、小説「峠」の一文が直筆で刻まれている。

↓自筆の碑文

◇八丁沖古戦場パーク(長岡市富島町)
次は八丁沖古戦場パークへ。長岡城奪回のため、全軍が腰まで沼に埋まって夜間に潜行するクライマックスの舞台だが、現在は田んぼとなっていて石碑があるのみ。石碑のある場所がわからず、たどり着くのに苦労した。当時は百束、大黒あたりから、南は富島、亀貝に至る東西3km、南北5kmに沼地が広がっていたという。不意を突かれた新政府軍は、必死に防戦したが昼すぎには勝敗は明らかとなり、長岡城の奪回に成功したのだった。映画の場面と重ね合わせ、想像するだけだ。

◇佐潟水鳥・湿地センター(新潟市赤塚5404-1)
八丁沖の実際の撮影地は新潟市西区の佐潟である。立派な自然公園だった。下潟と芝生広場の二か所で撮影され、拠点施設「佐潟水鳥・湿地センター」にはロケの写真が展示されていた。慶応4年(1868)7月24日午後7時ごろ、長岡城奪還のため、夜間から600人が腰まで水に埋まって潜航したクライマックス場面。多くのエキストラが参加して撮影した下潟は歩いて30分ほどかかるため、パスした。芝生広場は10分ほど。
↓佐潟水鳥・湿地センターに展示されていたロケの写真

↓佐潟

↓ロケが行われた芝生広場

今日の足跡
最低気温23.1度、最高気温33.3度。曇り。昼頃一時雨。午後からずっと雷が鳴っている。

○…… 若いころに読んだ司馬遼太郎の小説「峠」。上巻が597ページ、下巻が548ページの長編だった。今は上、中、下巻に分かれているようだ。読み返そうとおもったけれど、字が小さくて断念した。
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Comment
十日町╱六日市╱妙見╱三仏生。どれも懐かしいふるさと界隈の地名です。ロケ地ではないかもしれませんが、機会があれば、ここから遠く離れた「吉ケ平」に足を運んでみてはいかがでしょう。栃尾の山奥で八十里越の登り口。道中も一帯も原生林だけに新緑か紅葉の時期のドライブがオススメです。
コメントありがとうざいます。
長岡藩が八丁沖渡河作戦により長岡城を奪還したものの、継之助が足を負傷し、奪還のわずか4日後、再び長岡城は落城します。
継之助は只見町の塩沢で亡くなりますが、担架に乗って長岡城下を脱出し、東山山麓を北上して見附、栃尾を経て、八十里越に達します。八十里越は一里が十里に相当するくらいの難所だったので、この名がついたと言われています(実際は8里)。継之助は、悪路に揺られながら「八十里腰抜け武士の越す峠」と自嘲の句を詠みました。継之助は破傷風で亡くなったとされています。
只見町には河井継之助の記念館があり、亡くなったときの部屋が再現されているそうです。熱の冷めないうちに訪ねたいと思っています。
長岡藩が八丁沖渡河作戦により長岡城を奪還したものの、継之助が足を負傷し、奪還のわずか4日後、再び長岡城は落城します。
継之助は只見町の塩沢で亡くなりますが、担架に乗って長岡城下を脱出し、東山山麓を北上して見附、栃尾を経て、八十里越に達します。八十里越は一里が十里に相当するくらいの難所だったので、この名がついたと言われています(実際は8里)。継之助は、悪路に揺られながら「八十里腰抜け武士の越す峠」と自嘲の句を詠みました。継之助は破傷風で亡くなったとされています。
只見町には河井継之助の記念館があり、亡くなったときの部屋が再現されているそうです。熱の冷めないうちに訪ねたいと思っています。