05日22時37分=2022年=
中郷区で野村忠宏講演会 金メダルも披露
2004年のアテネオリンピックで柔道史上初の3連覇を成し遂げた野村忠宏さんの講演会が、上越市中郷区のはーとぴあ中郷で開かれた。1時間半の講演で、自分の頭で考え、自分で判断したことを最後までブレずに貫き通すことの大切さを学ばせてもらった。3個の金メダルを見ることもできた。

無料の講演会だが、入場整理券をはーとぴあ中郷か、総合事務所までもらいにいく必要がある。先月下旬に池の平に行った際、もらってきた。会場は満席状態だったが、入場30分前から並んでいたので、前方の席を確保できた。
最初に野村さんの選手時代の活躍ぶりをビデオ上映し、その後に野村さんが登場した。講演の中でもふれていたが、身長164cmと小柄でスマート。おそらく全身に筋肉が付いているのだろうが、とてもオリンピック3連覇した人には見えない。体は小さいが今も全身にエネルギーが満ちている感じがする。柔道一家で育ち、3歳から柔道を始めたが体が小さく、高校生までは平凡な選手だった。だが、大学の監督の的確なアドバイスで強さを増して行く過程の話が面白く、とても興味深かった。
講演の後、色紙が20人に当たる抽選会をしたが、野村さんが出てきて色紙を手渡したり、握手して記念撮影に応じるなど気さくな人柄をみせた。

【講演要旨】(野村さんがかなり早口で、十分にメモができなかったため、かなり省略してあります)
人生の大部分をかけてやってきた柔道を通し、学んだこと、経験した柔道を話したい。
オリンピックで3回金メダルを取ることができたが、決して私は特別な存在ではなかった。子供の頃からいくら頑張っても勝てないし、期待もされていなかった。
祖父が今から85年前、奈良で「豊徳館野村道場」を創設した。その道場で父や叔父も学んだ。私も3歳のときに一つ上の兄とともに柔道を始めた。父は現役時代、それほど名を上げた選手ではなかったが、引退してから天理高校の柔道部監督として高校を何度も日本一に導いた。父の弟はミュンヘンオリンピックの柔道で金メダルを取った。
今振り返ってもねすごく幸せだったのは、祖父の道場で柔道を学べたこと。祖父は、厳しい稽古は必要なく、柔道の基本を学びながら柔道を好きになってくれればいいと。自ずから目標を持って努力するようになると。両親も柔道だけしていればいいというのではなく、いろいろな経験をさせてくれた。小学生時代は柔道以外に週2回水泳をし、学校のクラブ活動はサッカー部、地元のスポーツ少年団では野球をしていた。いろんな経験をする中で、自分なりに一番魅力的だったのが柔道だった。
中学校の部活動は、楽しいだけじゃなく本気で強くなろうと思って柔道を自分で選んだ。それが私の最初の大きな決断だった。中学校は地元ではなく、電車通学で1時間の天理中学だった。入学した時の身長は140cmで、体重が32kgしかなかった。最初の試合が天理市立中学が集まって学年別でする試合で、1回戦で女子に負けてしまった。県大会のベスト16ぐらいが最高で、特別な、みんなが期待するような選手じゃなかった。
父親が監督をしていた名門の天理高校に進学するわけだが、天理高校の柔道部の練習があまりにも厳しいという情報を兄から聞いた。先輩が怖く、寮生活もしんどい。体格も80kg、90kg、中には130kgという人ばかりの中、強い高校の柔道部に入って心と体ついていけるかなという心配があった。
父親は柔道のアドバイスはほとんどしない人だったが、兄には「人の3倍努力する覚悟を持て」と言った。だが、私には「忠宏、無理して柔道せんでいいぞ」だった。兄に対しては期待する言葉だと思う。親父には厳しい言葉で俺の背中を押して期待してほしかった。悔しさを覚え「親父見とけ、俺はいつか強くなって親父が認めるようなすごい選手になってやる」というのが、大きな原動力になった。
天理高校の柔道部に入って、本音を言えば1週間で後悔した。45kgの自分が、80kg、90kgの中に飛び込んだわけだから、毎日毎日ぼろ雑巾のように投げ飛ばされた。柔道の厳しさ、寮生活の厳しさを味わいながら、その時でも逃げだそうとか諦めようっていうのはなかった。柔道を選んだのは自分だから。目標はしっかり持ち、高校3年生でようやく奈良県総体に出場し初めて優勝した。インターハイでは予選リーグで敗退し、1勝すらできなかった。
私の柔道人生が一変したのは天理大学に進学してから。大学に入って最初の試合は関西学生体重別選手権。当時大学には100人の部員がいて、60kg級には12、3人いた。大学1年のときは、校内予選で負けて出場できなかった。だが、大学2年では全日本の学生チャンピオンになり、4年生でオリンピックチャンピオンになった。誰もが想像してなかったぐらい大きな飛躍を遂げた。
自分自身が変わっていくきっかけは、大学2年のときにやってきた。大学には細川伸二という同じ60kg級で84年ロサンゼルス五輪金メダル、88年ソウル五輪銅メダルの実績を持つ一流の指導者がいた。細川先生は練習中に大きな声を出さない。じっと表情を見ている。だからこそ選手の悩みや課題が見えてくる。そしてここぞというタイミングを見極めて、一人ひとりの選手に言葉をかける。
2年生になった時、細川先生が「乱取りするぞ」と。先生は35歳ぐらいだが、引退して5年ほど経つ。乱取りは実践形式で相手と組み合って戦う反復練習で、6分のを12本やる。細川先生を投げたいと向かっていったが、6分過ぎても終わらない。10分ほど経ってお互いがバタバテになったとき、先生が「よし」と。「今までお前が頑張っていた練習というのは与えられた練習。常に残りの時間、本数を気にしながらペース配分して練習していた。それで本当に強くなれると思うか」と言った。そして「本気で自分を変えたいのだったら、目の前の6分で自分を出し切る意識を持って練習をしろ。バテたら休んでいいから、後のことを考えずに練習しろ」と言った。
気づかぬうちに、努力しているだけで満足するように変わっていた。どこかで今日頑張った自分を褒めてやろう、今日も練習頑張ったというのがその日の目的になっていた。それを細川先生が教えてくれた。
練習を限界までやって「休ませてほしい」と言ったら「お前、そんなもんか」と言われた。強くなりたいと思い、意地と根性で歯を食いしばって頑張ったら、そこそこできた。自分の限界って自分で作っていた。本当の意味での限界値を見極めてくれたのが細川先生だった。
意識を変えただけで半年後に全日本のチャンピオンになれるかというとそうではない。大学2年になって体重も増え、柔道選手としての体ができてきた。磨き続けてきた背負投が体に染み込み武器になってきたのだ。
オリンピックは1996年のアトランタオリンピック、2000年のシドニーオリンピック、2004年のアテネオリンピックの3大会を経験したが、3回とも私にとっての意味が違った。
アトランタでは「本当に俺がオリンピックで戦っていいのか」と自信がなかった。プレッシャーに負けないように3つのテーマを掲げた。一つは「常に前に出て攻撃すること」、二つ目は「不安を顔に出さない」、三つ目は「最後まで諦めない」だった。ピンチの試合もあったが、冷静に試合ができた。
自分の力のすべてを出し切って金メダルを獲得したとき、すごい感動と大粒の涙が流れた。そのとき、もう一度この感動を味わいたいと思った。
新聞には「田村まさかの銀」「野村まさかの金」と書かれたが、その「まさかの金」を持ってきた(3つの金メダルを掲げると、会場から大きな拍手)。アテネのオリンピックの金メダルは、日本人が獲得した100個目の金メダルになる。
4年に1度というのはアスリートに大きな変化をもたらす。肉体の衰え、精神的疲労もある。柔道は世界のスポーツになっているので、どんどん若い力が生まれてくる。自分の実力を把握しながら、4年後にどういう自分を作り上げるのか、何を武器に戦うのか、どういうテーマで試合に挑むのか。連覇するには周りの変化などを見極めながら、自分の柔道を進化させなくてはならない。
最初のオリンピックはほとんど背負投で勝ったが、今度は世界中から研究される。シドニーでは背負投以外の技で一本を取れるように磨きをかけた。それで胸を張って2連覇を達成することができた。
26歳のときに2連覇し、3連覇を目指すのか、引退をするのか決めなくてはいけなくなった。30歳でオリンピックの金メダルを取った人はいなかったし、ましてや3連覇はいなかった。最強のままで引退するか、続けるのか決める勇気がなく、宙ぶらりんのまま過ごし、あっという間に1年が過ぎた。
答えが出なかったのでアメリカに逃げた。英語の勉強をしながら、キャンパスライフを楽しんだ。だが、楽しいけれど充実感がない。いま辞めたら楽になれるし、周りもほめてくれるだろう。だが、50歳、60歳、70歳になったときになんで挑戦しなかったのかと後悔する自分がいると思った。アメリカの地で3連覇を目指してもう一度頑張ると腹を決めた。
2年間、実践を離れていたのでブランクを埋めるのは大変だと思っていたが、自分の経験から「世界一の作り方」をわかっていたつもりだった。実際、畳の上で実践しても、試合では勝てなかった。復帰1、2戦は惨敗だった。
評価が一変し、周りからも引退を勧められ、落ちるところまで落ちたが、自分はやめなかった。自分の決断が間違いではないというのを証明できるのは自分しかなかった。円形脱毛症ができるほど追い込まれたが、アテネオリンピックまでまだ1年半あった。今勝てないのは、20年以上かけて体に染み込ませた技術が引き出せていないからだ。それを邪魔していたのが、自分のプライドだった。投げられたくないなどのプライドで全力が出せず、守る柔道になっていた。プライドを捨て、弱さを認めることから始め、私はアテネオリンピックの舞台に立つことができた。
アテネで3連覇し、最高のやめ時だったが、その頃になったらサラサラ辞める気がなくなった。いい引き際を求めるよりも、まだまだ柔道をやる情熱があった。努力が続けられるうちは、柔道の現役選手としていろんなものを見ていきたいと思った。辞める理由を自分で探すこともやめた。引退は心の限界、体の限界、続ける環境がなくなったときの3つ。いずれやってくるときまでは、柔道選手としてとことんやっていこうと決めて、40歳までやった。
最後は痛々しかった。最後は主治医から「現役で膝を酷使し続けたアスリートの最終形」と言われた。「ドクターとしてできることはもうない」と言われた。それで引退を決意した。2015年、引退試合を迎えて、1、2回戦では背負投で一本勝ちをすることができた。最後は若い選手から豪快に一本負けした。負けた瞬間、会場から大きな拍手をもらった。負けて拍手をもらったのは初めてだった。
今日の
最低気温6.1度、最高気温14.3度。曇り。

○……コシヒカリマラソンが13日、開かれる。2018年に参加したのが最後。台風で中止になったり、コロナで中止になったりしているうちに、練習不足で走れなくなった。また練習すれば走れるようになるだろうか。講演を聞いた野村さんは2年間のブランクを克服したけれど、4年間のブランクだ。その上、年齢も違う。距離を短くするなどを考えないと。
13日には小出雲交差点から石塚交差点まで、まちなかをランナーが走る。応援だけはしたい。

無料の講演会だが、入場整理券をはーとぴあ中郷か、総合事務所までもらいにいく必要がある。先月下旬に池の平に行った際、もらってきた。会場は満席状態だったが、入場30分前から並んでいたので、前方の席を確保できた。
最初に野村さんの選手時代の活躍ぶりをビデオ上映し、その後に野村さんが登場した。講演の中でもふれていたが、身長164cmと小柄でスマート。おそらく全身に筋肉が付いているのだろうが、とてもオリンピック3連覇した人には見えない。体は小さいが今も全身にエネルギーが満ちている感じがする。柔道一家で育ち、3歳から柔道を始めたが体が小さく、高校生までは平凡な選手だった。だが、大学の監督の的確なアドバイスで強さを増して行く過程の話が面白く、とても興味深かった。
講演の後、色紙が20人に当たる抽選会をしたが、野村さんが出てきて色紙を手渡したり、握手して記念撮影に応じるなど気さくな人柄をみせた。

【講演要旨】(野村さんがかなり早口で、十分にメモができなかったため、かなり省略してあります)
人生の大部分をかけてやってきた柔道を通し、学んだこと、経験した柔道を話したい。
オリンピックで3回金メダルを取ることができたが、決して私は特別な存在ではなかった。子供の頃からいくら頑張っても勝てないし、期待もされていなかった。
祖父が今から85年前、奈良で「豊徳館野村道場」を創設した。その道場で父や叔父も学んだ。私も3歳のときに一つ上の兄とともに柔道を始めた。父は現役時代、それほど名を上げた選手ではなかったが、引退してから天理高校の柔道部監督として高校を何度も日本一に導いた。父の弟はミュンヘンオリンピックの柔道で金メダルを取った。
今振り返ってもねすごく幸せだったのは、祖父の道場で柔道を学べたこと。祖父は、厳しい稽古は必要なく、柔道の基本を学びながら柔道を好きになってくれればいいと。自ずから目標を持って努力するようになると。両親も柔道だけしていればいいというのではなく、いろいろな経験をさせてくれた。小学生時代は柔道以外に週2回水泳をし、学校のクラブ活動はサッカー部、地元のスポーツ少年団では野球をしていた。いろんな経験をする中で、自分なりに一番魅力的だったのが柔道だった。
中学校の部活動は、楽しいだけじゃなく本気で強くなろうと思って柔道を自分で選んだ。それが私の最初の大きな決断だった。中学校は地元ではなく、電車通学で1時間の天理中学だった。入学した時の身長は140cmで、体重が32kgしかなかった。最初の試合が天理市立中学が集まって学年別でする試合で、1回戦で女子に負けてしまった。県大会のベスト16ぐらいが最高で、特別な、みんなが期待するような選手じゃなかった。
父親が監督をしていた名門の天理高校に進学するわけだが、天理高校の柔道部の練習があまりにも厳しいという情報を兄から聞いた。先輩が怖く、寮生活もしんどい。体格も80kg、90kg、中には130kgという人ばかりの中、強い高校の柔道部に入って心と体ついていけるかなという心配があった。
父親は柔道のアドバイスはほとんどしない人だったが、兄には「人の3倍努力する覚悟を持て」と言った。だが、私には「忠宏、無理して柔道せんでいいぞ」だった。兄に対しては期待する言葉だと思う。親父には厳しい言葉で俺の背中を押して期待してほしかった。悔しさを覚え「親父見とけ、俺はいつか強くなって親父が認めるようなすごい選手になってやる」というのが、大きな原動力になった。
天理高校の柔道部に入って、本音を言えば1週間で後悔した。45kgの自分が、80kg、90kgの中に飛び込んだわけだから、毎日毎日ぼろ雑巾のように投げ飛ばされた。柔道の厳しさ、寮生活の厳しさを味わいながら、その時でも逃げだそうとか諦めようっていうのはなかった。柔道を選んだのは自分だから。目標はしっかり持ち、高校3年生でようやく奈良県総体に出場し初めて優勝した。インターハイでは予選リーグで敗退し、1勝すらできなかった。
私の柔道人生が一変したのは天理大学に進学してから。大学に入って最初の試合は関西学生体重別選手権。当時大学には100人の部員がいて、60kg級には12、3人いた。大学1年のときは、校内予選で負けて出場できなかった。だが、大学2年では全日本の学生チャンピオンになり、4年生でオリンピックチャンピオンになった。誰もが想像してなかったぐらい大きな飛躍を遂げた。
自分自身が変わっていくきっかけは、大学2年のときにやってきた。大学には細川伸二という同じ60kg級で84年ロサンゼルス五輪金メダル、88年ソウル五輪銅メダルの実績を持つ一流の指導者がいた。細川先生は練習中に大きな声を出さない。じっと表情を見ている。だからこそ選手の悩みや課題が見えてくる。そしてここぞというタイミングを見極めて、一人ひとりの選手に言葉をかける。
2年生になった時、細川先生が「乱取りするぞ」と。先生は35歳ぐらいだが、引退して5年ほど経つ。乱取りは実践形式で相手と組み合って戦う反復練習で、6分のを12本やる。細川先生を投げたいと向かっていったが、6分過ぎても終わらない。10分ほど経ってお互いがバタバテになったとき、先生が「よし」と。「今までお前が頑張っていた練習というのは与えられた練習。常に残りの時間、本数を気にしながらペース配分して練習していた。それで本当に強くなれると思うか」と言った。そして「本気で自分を変えたいのだったら、目の前の6分で自分を出し切る意識を持って練習をしろ。バテたら休んでいいから、後のことを考えずに練習しろ」と言った。
気づかぬうちに、努力しているだけで満足するように変わっていた。どこかで今日頑張った自分を褒めてやろう、今日も練習頑張ったというのがその日の目的になっていた。それを細川先生が教えてくれた。
練習を限界までやって「休ませてほしい」と言ったら「お前、そんなもんか」と言われた。強くなりたいと思い、意地と根性で歯を食いしばって頑張ったら、そこそこできた。自分の限界って自分で作っていた。本当の意味での限界値を見極めてくれたのが細川先生だった。
意識を変えただけで半年後に全日本のチャンピオンになれるかというとそうではない。大学2年になって体重も増え、柔道選手としての体ができてきた。磨き続けてきた背負投が体に染み込み武器になってきたのだ。
オリンピックは1996年のアトランタオリンピック、2000年のシドニーオリンピック、2004年のアテネオリンピックの3大会を経験したが、3回とも私にとっての意味が違った。
アトランタでは「本当に俺がオリンピックで戦っていいのか」と自信がなかった。プレッシャーに負けないように3つのテーマを掲げた。一つは「常に前に出て攻撃すること」、二つ目は「不安を顔に出さない」、三つ目は「最後まで諦めない」だった。ピンチの試合もあったが、冷静に試合ができた。
自分の力のすべてを出し切って金メダルを獲得したとき、すごい感動と大粒の涙が流れた。そのとき、もう一度この感動を味わいたいと思った。
新聞には「田村まさかの銀」「野村まさかの金」と書かれたが、その「まさかの金」を持ってきた(3つの金メダルを掲げると、会場から大きな拍手)。アテネのオリンピックの金メダルは、日本人が獲得した100個目の金メダルになる。
4年に1度というのはアスリートに大きな変化をもたらす。肉体の衰え、精神的疲労もある。柔道は世界のスポーツになっているので、どんどん若い力が生まれてくる。自分の実力を把握しながら、4年後にどういう自分を作り上げるのか、何を武器に戦うのか、どういうテーマで試合に挑むのか。連覇するには周りの変化などを見極めながら、自分の柔道を進化させなくてはならない。
最初のオリンピックはほとんど背負投で勝ったが、今度は世界中から研究される。シドニーでは背負投以外の技で一本を取れるように磨きをかけた。それで胸を張って2連覇を達成することができた。
26歳のときに2連覇し、3連覇を目指すのか、引退をするのか決めなくてはいけなくなった。30歳でオリンピックの金メダルを取った人はいなかったし、ましてや3連覇はいなかった。最強のままで引退するか、続けるのか決める勇気がなく、宙ぶらりんのまま過ごし、あっという間に1年が過ぎた。
答えが出なかったのでアメリカに逃げた。英語の勉強をしながら、キャンパスライフを楽しんだ。だが、楽しいけれど充実感がない。いま辞めたら楽になれるし、周りもほめてくれるだろう。だが、50歳、60歳、70歳になったときになんで挑戦しなかったのかと後悔する自分がいると思った。アメリカの地で3連覇を目指してもう一度頑張ると腹を決めた。
2年間、実践を離れていたのでブランクを埋めるのは大変だと思っていたが、自分の経験から「世界一の作り方」をわかっていたつもりだった。実際、畳の上で実践しても、試合では勝てなかった。復帰1、2戦は惨敗だった。
評価が一変し、周りからも引退を勧められ、落ちるところまで落ちたが、自分はやめなかった。自分の決断が間違いではないというのを証明できるのは自分しかなかった。円形脱毛症ができるほど追い込まれたが、アテネオリンピックまでまだ1年半あった。今勝てないのは、20年以上かけて体に染み込ませた技術が引き出せていないからだ。それを邪魔していたのが、自分のプライドだった。投げられたくないなどのプライドで全力が出せず、守る柔道になっていた。プライドを捨て、弱さを認めることから始め、私はアテネオリンピックの舞台に立つことができた。
アテネで3連覇し、最高のやめ時だったが、その頃になったらサラサラ辞める気がなくなった。いい引き際を求めるよりも、まだまだ柔道をやる情熱があった。努力が続けられるうちは、柔道の現役選手としていろんなものを見ていきたいと思った。辞める理由を自分で探すこともやめた。引退は心の限界、体の限界、続ける環境がなくなったときの3つ。いずれやってくるときまでは、柔道選手としてとことんやっていこうと決めて、40歳までやった。
最後は痛々しかった。最後は主治医から「現役で膝を酷使し続けたアスリートの最終形」と言われた。「ドクターとしてできることはもうない」と言われた。それで引退を決意した。2015年、引退試合を迎えて、1、2回戦では背負投で一本勝ちをすることができた。最後は若い選手から豪快に一本負けした。負けた瞬間、会場から大きな拍手をもらった。負けて拍手をもらったのは初めてだった。
今日の足跡
最低気温6.1度、最高気温14.3度。曇り。

○……コシヒカリマラソンが13日、開かれる。2018年に参加したのが最後。台風で中止になったり、コロナで中止になったりしているうちに、練習不足で走れなくなった。また練習すれば走れるようになるだろうか。講演を聞いた野村さんは2年間のブランクを克服したけれど、4年間のブランクだ。その上、年齢も違う。距離を短くするなどを考えないと。
13日には小出雲交差点から石塚交差点まで、まちなかをランナーが走る。応援だけはしたい。
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