29日23時39分=2023年=
先人の思いが伝わる大地震や火災、津波などの災害史料
先月、新潟へ行ったとき、ちょうど県立歴史博物館で開催していた「伝える災害の記憶」展を見てきた。あいおいニッセイ同和損保が所蔵する災害史料の展示だという。すでに6月4日、展覧会は終了した。早く書けばよかったが、メモ帳をなくしてしまい遅くなってしまった。

あいおいニッセイ同和損保の前身、共同火災海上保険の社長であり、新生同和火災の社長となった廣瀬鉞太郎(ひろせ・えつたろう)が長い年月を費やして収集したものだ。大正時代の終わりから昭和10年頃までの約15年間に集めたものだという。昭和20年代に入って、同和火災に寄贈されたという。
↓会場入口の掲示。地震を起こすナマズを捕まえようとしている

契機になったのは大正12年9月1日の関東大震災。当時の火災保険では地震による損害は補償の対象外で、現在のような地震保険もなかった。損保会社に支払い責任はない。しかしながら、保険会社はこの非常時に支払いを行い復興に寄与すべきとの声が高まり、政界からの強い要請も火に油を注いだ。
↓会場

当時の保険会社の資産総額は損害額に比べて遠く及ばず、存亡の危機にさらされた。最終的には保険会社が政府から借り入れを行い契約者に支援金を支払うことでようやく決着をみたという。廣瀬氏は長年関東地区の営業を担当し、直接の責任者として被災者対応の先頭に立ち辞退収拾に没頭した。このことが災害史料を収集するきっかけになったと推測されるという。
↓明治24年濃尾地震図。家の下敷きになった人を救助する様子も描かれている

大火災、大地震、落雷、台風、大津波、大水、暴風雨など、日本を襲った大災害を描いたかわら版、浮世絵、文書などが展示されていて、どれも当時の災害の様子が人目で分かるように描かれている。また、地震を起こすとされるナマズの絵(鯰絵)や地震よけのまじないのような絵も多数あった。
↓京都火災図

↓地震よけのお守り札

中でも明治の三陸大津波の図絵は、ちゃんと後世に恐ろしさが伝えられていれば、備える方法もあったはずだと残念に思う。津波は家の屋根をはるかに超えるもので、阿鼻叫喚の様子が描かれている。津波の恐ろしさがこれを見れば分かる。
それと、越後を襲った越後三条地震(1828年)と、高田でも大きな被害があった善光寺地震(1847年)の史料はじっくりと見させてもらった。越後三条地震の被害地図の木版画は中央に信濃川が配置され、三条町、つばめ、新津、いづもざき、柏さき、高田、佐渡といった被災地が書いてある。
善光寺地震の災害図は、地震に伴って土砂崩れが起き、犀川がせき止められてしまった。せき止められた場所は徐々に水がたまり、地震の1か月後に決壊したのだ。水害が起きたところ、火災が起きたところ、土砂災害が起きた場所が3色に塗り分けられている。決壊後の図もあり、その精密さには驚いた。
越後で発生した災害のコーナーは写真撮影不可だった。
今は誰でもスマホを持ち、動画でも写真でも手軽に撮れる。木版か手書きしかない昔、なんとか後世の人に災害の実態を知ってもらおうと、書き残した先人の思いに敬意を表したい。
今日の
最低気温20.0度、最高気温30.0度。曇り。
○……同級生が10年間の単身赴任から我が家に戻ってきて先日、道で偶然に会った。その時、「今度飲もう」と約束したので、今日誘い合って近くのすし店に飲みに行った。
黒バイの煮付け、するてんなどの地元の味覚や、すしをつまみながら、近況などを話した。あっという間に3時間ほどが過ぎた。
彼は海外旅行を含めて、あちこちに旅行していてくわしかった。自分で車を運転したり、電車の切符や宿を手配し、自分の行きたいところに行ける時間は、お互いに残り少ない。

あいおいニッセイ同和損保の前身、共同火災海上保険の社長であり、新生同和火災の社長となった廣瀬鉞太郎(ひろせ・えつたろう)が長い年月を費やして収集したものだ。大正時代の終わりから昭和10年頃までの約15年間に集めたものだという。昭和20年代に入って、同和火災に寄贈されたという。
↓会場入口の掲示。地震を起こすナマズを捕まえようとしている

契機になったのは大正12年9月1日の関東大震災。当時の火災保険では地震による損害は補償の対象外で、現在のような地震保険もなかった。損保会社に支払い責任はない。しかしながら、保険会社はこの非常時に支払いを行い復興に寄与すべきとの声が高まり、政界からの強い要請も火に油を注いだ。
↓会場

当時の保険会社の資産総額は損害額に比べて遠く及ばず、存亡の危機にさらされた。最終的には保険会社が政府から借り入れを行い契約者に支援金を支払うことでようやく決着をみたという。廣瀬氏は長年関東地区の営業を担当し、直接の責任者として被災者対応の先頭に立ち辞退収拾に没頭した。このことが災害史料を収集するきっかけになったと推測されるという。
↓明治24年濃尾地震図。家の下敷きになった人を救助する様子も描かれている

大火災、大地震、落雷、台風、大津波、大水、暴風雨など、日本を襲った大災害を描いたかわら版、浮世絵、文書などが展示されていて、どれも当時の災害の様子が人目で分かるように描かれている。また、地震を起こすとされるナマズの絵(鯰絵)や地震よけのまじないのような絵も多数あった。
↓京都火災図

↓地震よけのお守り札

中でも明治の三陸大津波の図絵は、ちゃんと後世に恐ろしさが伝えられていれば、備える方法もあったはずだと残念に思う。津波は家の屋根をはるかに超えるもので、阿鼻叫喚の様子が描かれている。津波の恐ろしさがこれを見れば分かる。
それと、越後を襲った越後三条地震(1828年)と、高田でも大きな被害があった善光寺地震(1847年)の史料はじっくりと見させてもらった。越後三条地震の被害地図の木版画は中央に信濃川が配置され、三条町、つばめ、新津、いづもざき、柏さき、高田、佐渡といった被災地が書いてある。
善光寺地震の災害図は、地震に伴って土砂崩れが起き、犀川がせき止められてしまった。せき止められた場所は徐々に水がたまり、地震の1か月後に決壊したのだ。水害が起きたところ、火災が起きたところ、土砂災害が起きた場所が3色に塗り分けられている。決壊後の図もあり、その精密さには驚いた。
越後で発生した災害のコーナーは写真撮影不可だった。
今は誰でもスマホを持ち、動画でも写真でも手軽に撮れる。木版か手書きしかない昔、なんとか後世の人に災害の実態を知ってもらおうと、書き残した先人の思いに敬意を表したい。
今日の足跡
最低気温20.0度、最高気温30.0度。曇り。
○……同級生が10年間の単身赴任から我が家に戻ってきて先日、道で偶然に会った。その時、「今度飲もう」と約束したので、今日誘い合って近くのすし店に飲みに行った。
黒バイの煮付け、するてんなどの地元の味覚や、すしをつまみながら、近況などを話した。あっという間に3時間ほどが過ぎた。
彼は海外旅行を含めて、あちこちに旅行していてくわしかった。自分で車を運転したり、電車の切符や宿を手配し、自分の行きたいところに行ける時間は、お互いに残り少ない。
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