20日19時53分=2023年=
渋沢栄一の故郷、埼玉県深谷市へ②
↓渋沢記念館裏側にある渋沢栄一の銅像

記念館裏側には渋沢栄一の大きな銅像がある。高さ5mで、堂々とした体格の銅像だ。記念館裏側にあるので、見ないで帰ってしまう人も多いそうだ。次に一番見たかった血洗島の旧渋沢邸「中の家(なかんち)」に向かった。渋沢記念館から歩いて800mほどだろうか。案内地図を見ながら青淵公園を通って行った。青淵(せいえん)というのは渋沢の雅号である。
↓生誕地の碑

↓中の家

「中の家」は渋沢栄一の生誕地で、1855年(明治28年)に妹夫婦が再建したもの。入り口に「史蹟 澁澤栄一生地」と書かれた碑が建っていた。
母屋を囲むように副家、4つの土蔵、正門、東門があり、この地方の養蚕農家屋敷の典型的な形のようだ。渋沢栄一はこの場所に生まれ、23歳まで過ごした。大河ドラマ「青天を衝け」の場面を思い出す。
↓「若き日の栄一」像

庭には渋沢の等身大の銅像があった。着物を着て菅笠を持ち、帯刀した姿で「若き日の栄一」と書かれていた。
「中の家」は主屋の耐震補強をしたばかりで、それまでは木造2階建ての内部には入れなかった。今年8月10日から一般公開が始まったばかりだという。ラッキーだった。ここにも、栄一アンドロイドがあり、シアター上映の説明をしていた。
↓赤レンガのかまど跡

ほかに、今回の工事で床下から、渋沢が設立した日本煉瓦製造で作った赤レンガも発見され、遺構をガラス張りにして見られるようにしてあった。
↓ドラマで使われた血判状

↓ドラマを再現した部屋

↓ドラマで使われた栄一の洋装写真

ドラマ場面の再現セットや、使われた小道具の展示もあった。中でも本物かと勘違いするほどの出来栄えだったのが「焼き討ち計画の血判状」。攘夷を起こすための横浜焼き討ち計画に賛同した栄一(吉沢亮)や喜作(高良健吾)などが署名した血判状である。だが、京都から戻った長七郎は計画は無謀だとして異議をとなえたのだった。その場面が目に浮かぶ血判状であった。ほかに撮影に使われた「パリから届いた栄一の洋装写真」もあった。
↓父母の招魂碑

外を巡ると、栄一の父、渋沢市郎右衛門と母えいの招魂碑(慰霊碑)が並んで建っていた。父の碑文は栄一、母の碑文は栄一の師尾高惇忠である。尾高惇忠の弟で、栄一の養子となった渋沢平九郎の追悼碑もあった。碑文は栄一である。
「中の家」を見た後、コミュニティバスの発車時間まで30分ほどあったので、800mほど東にある「尾高惇忠(じゅんちゅう)生家」へ行くことにした。「近くにバス停があるので、そこでバスに乗ればいい」と係の人が教えてくれた。
↓尾高惇忠の生家

尾高惇忠は渋沢栄一のいとこで、学問の師として若き日の渋沢に大きな影響を与えた。官営富岡製糸場の設計に計画当初から携わり、初代場長を務めた。
↓藍玉

↓藍が植えてあった

↓かまど

↓レンガ造りの蔵

栄一は惇忠の家に通い、論語などを学んだ。その生家が今も残っていて、無料で入ることができる。家の中にはかまどがあり、1階の部屋を見ることができた。ドラマに出てくる藍が栽培されていて、藍玉も実物を見ることができた。中庭に出ると、珍しいレンガ造りの蔵があった。
↓焼き討ちの密議をした部屋(2階)

↓密議が行われた2階の部屋(パネル)

ドラマ「青天を衝け」で、非常に緊迫した場面があった。若き日の栄一や惇忠らが、ときの尊王攘夷思想に共鳴し、高崎城の乗っ取りや、横浜の外国人商館を焼き討ちするという密議をしたのはこの家の2階だという。2階に上がることはできなかったが、今もそのまま残っていたとは驚きだ。
10分ほど見学した後、コミュニティバスで深谷駅へ向かい、帰途についた。
今日の
最低気温23.2度、最高気温29.7度。曇で朝方一時雨。

○……今日は朝方の犬の散歩前、少し雨が降ったが、昨日の散歩のときは青空が広がり、秋の雲であるうろこ雲が広がっていた。
うろこ雲は、いわし雲ともいう。巻積雲の一種で、上空の高いところに発生する雲である。

記念館裏側には渋沢栄一の大きな銅像がある。高さ5mで、堂々とした体格の銅像だ。記念館裏側にあるので、見ないで帰ってしまう人も多いそうだ。次に一番見たかった血洗島の旧渋沢邸「中の家(なかんち)」に向かった。渋沢記念館から歩いて800mほどだろうか。案内地図を見ながら青淵公園を通って行った。青淵(せいえん)というのは渋沢の雅号である。
↓生誕地の碑

↓中の家

「中の家」は渋沢栄一の生誕地で、1855年(明治28年)に妹夫婦が再建したもの。入り口に「史蹟 澁澤栄一生地」と書かれた碑が建っていた。
母屋を囲むように副家、4つの土蔵、正門、東門があり、この地方の養蚕農家屋敷の典型的な形のようだ。渋沢栄一はこの場所に生まれ、23歳まで過ごした。大河ドラマ「青天を衝け」の場面を思い出す。
↓「若き日の栄一」像

庭には渋沢の等身大の銅像があった。着物を着て菅笠を持ち、帯刀した姿で「若き日の栄一」と書かれていた。
「中の家」は主屋の耐震補強をしたばかりで、それまでは木造2階建ての内部には入れなかった。今年8月10日から一般公開が始まったばかりだという。ラッキーだった。ここにも、栄一アンドロイドがあり、シアター上映の説明をしていた。
↓赤レンガのかまど跡

ほかに、今回の工事で床下から、渋沢が設立した日本煉瓦製造で作った赤レンガも発見され、遺構をガラス張りにして見られるようにしてあった。
↓ドラマで使われた血判状

↓ドラマを再現した部屋

↓ドラマで使われた栄一の洋装写真

ドラマ場面の再現セットや、使われた小道具の展示もあった。中でも本物かと勘違いするほどの出来栄えだったのが「焼き討ち計画の血判状」。攘夷を起こすための横浜焼き討ち計画に賛同した栄一(吉沢亮)や喜作(高良健吾)などが署名した血判状である。だが、京都から戻った長七郎は計画は無謀だとして異議をとなえたのだった。その場面が目に浮かぶ血判状であった。ほかに撮影に使われた「パリから届いた栄一の洋装写真」もあった。
↓父母の招魂碑

外を巡ると、栄一の父、渋沢市郎右衛門と母えいの招魂碑(慰霊碑)が並んで建っていた。父の碑文は栄一、母の碑文は栄一の師尾高惇忠である。尾高惇忠の弟で、栄一の養子となった渋沢平九郎の追悼碑もあった。碑文は栄一である。
「中の家」を見た後、コミュニティバスの発車時間まで30分ほどあったので、800mほど東にある「尾高惇忠(じゅんちゅう)生家」へ行くことにした。「近くにバス停があるので、そこでバスに乗ればいい」と係の人が教えてくれた。
↓尾高惇忠の生家

尾高惇忠は渋沢栄一のいとこで、学問の師として若き日の渋沢に大きな影響を与えた。官営富岡製糸場の設計に計画当初から携わり、初代場長を務めた。
↓藍玉

↓藍が植えてあった

↓かまど

↓レンガ造りの蔵

栄一は惇忠の家に通い、論語などを学んだ。その生家が今も残っていて、無料で入ることができる。家の中にはかまどがあり、1階の部屋を見ることができた。ドラマに出てくる藍が栽培されていて、藍玉も実物を見ることができた。中庭に出ると、珍しいレンガ造りの蔵があった。
↓焼き討ちの密議をした部屋(2階)

↓密議が行われた2階の部屋(パネル)

ドラマ「青天を衝け」で、非常に緊迫した場面があった。若き日の栄一や惇忠らが、ときの尊王攘夷思想に共鳴し、高崎城の乗っ取りや、横浜の外国人商館を焼き討ちするという密議をしたのはこの家の2階だという。2階に上がることはできなかったが、今もそのまま残っていたとは驚きだ。
10分ほど見学した後、コミュニティバスで深谷駅へ向かい、帰途についた。
今日の足跡
最低気温23.2度、最高気温29.7度。曇で朝方一時雨。

○……今日は朝方の犬の散歩前、少し雨が降ったが、昨日の散歩のときは青空が広がり、秋の雲であるうろこ雲が広がっていた。
うろこ雲は、いわし雲ともいう。巻積雲の一種で、上空の高いところに発生する雲である。
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