31日22時36分=2023年=
花巻市の高村光太郎記念館と高村山荘へ
10月6~9日の3連休に岩手県遠野市を巡った最終日。書くのを忘れてしまった。その日は早めに遠野市を出て、新花巻駅まで電車で行った。駅前は宮沢賢治一色だったが、ここから18km先の花巻市内に高村光太郎記念館と旧居跡があることが分かったので、タクシーで往復することに決めた。
↓高村光太郎記念館(館内は撮影禁止)

↓光太郎詩碑

『智恵子抄』で知られる高村光太郎(1883~1956年)は、詩人だけではなく、彫刻でも有名だ。1914年(大正3年)から長沼智恵子と死別するまで一緒に暮らした住居兼アトリエは1945年(昭和20年)4月の戦災で焼け、何も残っていない。「智恵子抄」はその4年前の昭和16年に刊行された。今は東京都文京区千駄木の跡地に記念の説明プレートがあるだけ。
戦後、62歳の時に太田村山口(現花巻市)へ移住し、約7年間の独居自炊の生活を送った。高村光太郎記念館には、光太郎の代表作である「手」や「乙女の像・中型試作」など彫刻のほか、花巻での7年間に遺した書や直筆原稿が展示されていた。書も素晴らしいものだ。
↓高村山荘



↓山荘内のトイレ(「光」と彫ってある)

一番の見どころは記念館の隣に保存されている高村山荘。1952年にこの山荘を離れるまでもっぱら詩作と書に専心した。建物はわずか7.5坪だが、光太郎の没後、敬慕する地元の村人たちにより保存するための套屋(とうおく)が建てられ、後に套屋の外側にさらに鉄骨造りの第2套屋が建てられ、山荘が雨風から守られている。山荘の内部はガラス越しに見ることができるが、中には入れない。
障子に書かれた日時計、厠の「光」という文字の明かり取り、般若心経の文字など、光太郎が生活していた時のまま残っているが、粗末で不便なあばら屋である。孤独で厳しい生活を過ごしたのは、戦争中に戦意高揚のために多くの詩を作ったことへの贖罪の意味があったという。詩作は続けたが、彫刻を封印したのも、贖罪だった。
戦時中、高村は詩の部会長に就き、戦争を賛美する作品を、次々に発表した。日本が真珠湾攻撃を行った昭和16年12月8日に執筆した詩では、国民が一丸となって戦うことを呼びかけた。国民の戦意高揚を図る歌謡曲も作詞した。持ち寄られた日章旗などに激励のことばを記し、若者を戦地に送り出した。
「われら自ら養いてひとたび起つ 老若男女みな兵なり 大敵非をさとるに至るまでわれらは戦う 世界の歴史を両断する 十二月八日を記憶せよ」。
高村は1952年(昭和27年)、智恵子をイメージした「乙女の像」の制作のため、東京都内にアトリエを借り、封印していた彫刻制作を再開。肺結核を患っていた高村は、血を吐きながら制作に打ち込み、約1年かけて翌秋に完成させた。平和を祈る「乙女の像」は十和田湖畔に立っている。
高村は昭和37年、中野区桃園町のアトリエに仮寓。1956年(昭和31年)に73歳で没。「乙女の像」は遺作となった。
◇高村光太郎記念館・高村山荘
所在地:岩手県花巻市花城町9番30号
入館料:350円
電話:0198-28-3012
◇高村光太郎住居跡
所在地:東京都文京区千駄木5-22-8
東京メトロ「千駄木」駅から徒歩で7分
今日の
最低気温9.1度、最高気21.1度。晴れ。最低気温が10度以下になると朝方は寒い。
○……人間ドックの結果が届いた。経過観察となるC判定が視力、聴力、前立腺マーカーなど計4つあった。あとはA判定だったので、ホッとした。これで1年間は安心していられる。お金はかかるが、安心料と思えば安いものだ。

○……新花巻駅で弁当を買った。「イーハトーヴ 五目おこわ弁当」(1400円)。開けてみたら普通の弁当のようだけど、宮沢賢治にこだわっている。
「イーハトーヴの畑 五目おこわ」「どっどどどどうど 豚肉玉ねぎ生姜焼き」「銀河鉄道厚焼き玉子」「風の又三郎 すり身海苔巻き 紅生姜天ぷら」「山猫軒の旨煮」。味は普通。
↓高村光太郎記念館(館内は撮影禁止)

↓光太郎詩碑

『智恵子抄』で知られる高村光太郎(1883~1956年)は、詩人だけではなく、彫刻でも有名だ。1914年(大正3年)から長沼智恵子と死別するまで一緒に暮らした住居兼アトリエは1945年(昭和20年)4月の戦災で焼け、何も残っていない。「智恵子抄」はその4年前の昭和16年に刊行された。今は東京都文京区千駄木の跡地に記念の説明プレートがあるだけ。
戦後、62歳の時に太田村山口(現花巻市)へ移住し、約7年間の独居自炊の生活を送った。高村光太郎記念館には、光太郎の代表作である「手」や「乙女の像・中型試作」など彫刻のほか、花巻での7年間に遺した書や直筆原稿が展示されていた。書も素晴らしいものだ。
↓高村山荘



↓山荘内のトイレ(「光」と彫ってある)

一番の見どころは記念館の隣に保存されている高村山荘。1952年にこの山荘を離れるまでもっぱら詩作と書に専心した。建物はわずか7.5坪だが、光太郎の没後、敬慕する地元の村人たちにより保存するための套屋(とうおく)が建てられ、後に套屋の外側にさらに鉄骨造りの第2套屋が建てられ、山荘が雨風から守られている。山荘の内部はガラス越しに見ることができるが、中には入れない。
障子に書かれた日時計、厠の「光」という文字の明かり取り、般若心経の文字など、光太郎が生活していた時のまま残っているが、粗末で不便なあばら屋である。孤独で厳しい生活を過ごしたのは、戦争中に戦意高揚のために多くの詩を作ったことへの贖罪の意味があったという。詩作は続けたが、彫刻を封印したのも、贖罪だった。
戦時中、高村は詩の部会長に就き、戦争を賛美する作品を、次々に発表した。日本が真珠湾攻撃を行った昭和16年12月8日に執筆した詩では、国民が一丸となって戦うことを呼びかけた。国民の戦意高揚を図る歌謡曲も作詞した。持ち寄られた日章旗などに激励のことばを記し、若者を戦地に送り出した。
「われら自ら養いてひとたび起つ 老若男女みな兵なり 大敵非をさとるに至るまでわれらは戦う 世界の歴史を両断する 十二月八日を記憶せよ」。
高村は1952年(昭和27年)、智恵子をイメージした「乙女の像」の制作のため、東京都内にアトリエを借り、封印していた彫刻制作を再開。肺結核を患っていた高村は、血を吐きながら制作に打ち込み、約1年かけて翌秋に完成させた。平和を祈る「乙女の像」は十和田湖畔に立っている。
高村は昭和37年、中野区桃園町のアトリエに仮寓。1956年(昭和31年)に73歳で没。「乙女の像」は遺作となった。
◇高村光太郎記念館・高村山荘
所在地:岩手県花巻市花城町9番30号
入館料:350円
電話:0198-28-3012
◇高村光太郎住居跡
所在地:東京都文京区千駄木5-22-8
東京メトロ「千駄木」駅から徒歩で7分
今日の足跡
最低気温9.1度、最高気21.1度。晴れ。最低気温が10度以下になると朝方は寒い。
○……人間ドックの結果が届いた。経過観察となるC判定が視力、聴力、前立腺マーカーなど計4つあった。あとはA判定だったので、ホッとした。これで1年間は安心していられる。お金はかかるが、安心料と思えば安いものだ。

○……新花巻駅で弁当を買った。「イーハトーヴ 五目おこわ弁当」(1400円)。開けてみたら普通の弁当のようだけど、宮沢賢治にこだわっている。
「イーハトーヴの畑 五目おこわ」「どっどどどどうど 豚肉玉ねぎ生姜焼き」「銀河鉄道厚焼き玉子」「風の又三郎 すり身海苔巻き 紅生姜天ぷら」「山猫軒の旨煮」。味は普通。
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