14日22時37分=2023年=
戸隠の鬼女“紅葉”伝説
「戸隠譚-歴史と伝説-」という昭和39年発行の珍しい本を手に入れた。価格は220円。この新書判140ページの本に、戸隠の歴史とともに11の伝説が掲載されている。どれも面白かったので、現地を見ようと思い、「戸隠そば祭り」に行った際、伝説の地巡りをしてきた。でも、戸隠は広いので、ほんの一部しか見ることができなかった。
↓「戸隠譚」

その中でも面白いのが「鬼女“紅葉(もみじ)”伝説」。1000年ほど前の話で、具体的な人名や、今も残っている墓や地名などが出てくる。
鬼女が住んでいた「鬼の岩屋」、鬼に転じた紅葉が出入りした「屏風岩」、紅葉が化粧に使った「紅葉の化粧水」、維茂が紅葉に毒酒を飲まそうとした「毒の平」、維茂軍と紅葉軍が戦った「竜虎ヶ原」、維茂軍が紅葉の残党を打ち滅ぼした場所「安堵が峰」、紅葉の副将おまんの墓がある「足神社」、紅葉ゆかりの寺「大昌寺」、鬼女紅葉の墓「鬼の塚」など、多くの場所がある。
まずは、「戸隠譚」で紹介されている「鬼女紅葉の伝説」を紹介したい。長い話なので3分の1程度に短くしてある。時間のある方は、ぜひ読んでほしい。
↓和綴じ本「信濃奇勝録」(天保5年=1834年刊)にも掲載されている伝説の地面

↓鬼女紅葉(鬼無里)

◇「鬼女紅葉の伝説」
約1000年ほど前のこと。奥州の会津に笹丸と妻の菊世がわびしく暮らしていた。子供が欲しくて第六天の魔王に祈願したら、承年7年11月、女の子、呉葉(くれは)が生まれた。呉葉は美しく聡明だけではなく、和歌や琴、三味線も上手だった。
近くの安賀寿村の川瀬源右衛門という豪農に源吉という一人息子があって、秋祭りに呉葉を見て一目惚れした。しかし、呉葉は貧しい農家の娘。両親にも打ち明けられず、やせ細っていった。
息子が呉葉に恋していることを知った両親は釣り合わない縁だとは思ったが、かわいい一人息子のためだと思い、呉葉を源吉の嫁に貰おうと、二人は持参金を持って呉葉の家に行った。
しかし、笹丸は絶世の美女である呉葉を連れて京に上り、高官に嫁入りさせれば、家は再興できると考えた。そのため、大金を用意していっても話は一向に進まなかった。
笹丸と菊世、呉葉が相談したところ、呉葉は「第六天の魔王さまにお願いし、力を借りたらどうか」と祈りながら呪文を唱えると、家の中が揺れ動き、一人の美しい娘が現れた。それは呉葉と瓜二つだった。
呉葉は第六天の魔王に祈って生まれた娘であり、その後も魔王の加護を受けて「一人両身」の妖術を体得していたのだ。呉葉は「身代わりの呉葉を嫁にやってお金をたくさんもって、京都へ参りましょう」と行った。
急に縁談が進み、大金と引き換えに、身代わりの呉葉は源吉の元へ嫁にいった。すると、源吉は元通り元気になった。
しかし、ある日、源吉と呉葉が庭を眺めていると、呉葉が呪文を唱え、降りてきた雲に乗って空高く舞い上がって、二度と帰ってこなかった。驚いて笹丸の家に行くと、すでに空き家だった。笹丸親子3人は大金を受け取ると、その夜のうちに京都へ旅立っていったのだ。
京都では四条通りに店を借り、化粧品や髪飾りを売る店を出した。笹丸は伍助、菊世は花田、呉葉は紅葉(もみじ)と名を改めた。紅葉は多くの弟子をとって、琴を教えると、その妙なる琴の音とともに、紅葉の美しさは京都で評判になった。
天暦七年の夏の夕方、源経基(みなもとのつねもと)の夫人が腰元5人を連れて通りかかった。すると、行き交う人を立ち止まらせるほどの妙なる琴の音が聞こえてきた。
経基夫人は、紅葉に琴の演奏を所望した。紅葉は魔王の助けを念じて一曲を演奏すると、人の業とは思われない琴の音が響いた。
これがきっかけになり、紅葉は経基公の館に出入りするようになり、ついに夫人の腰元として仕えるようになった。ある日、経基公の宴席に招かれ、琴の演奏を求められた。すると、経基は演奏だけではなく、紅葉の美しさに心を奪われてしまった。そして、紅葉は子を宿した。
経基公は紅葉に夢中になる一方、紅葉は陰に隠れた悪性を見せてきた。夫人が亡くなれば、自分は夫人になれると、毎晩祈り続けた。そのため、夫人の健康が優れなくなった。
比叡山の大祈祷を依頼すると、祈祷はすぐに行われた。「この護符(お守り)を襟にかけると悪魔は退散する。この護符を襟にかけるのを拒む者あれば、怪しいものである。特に紅葉に注意せよ」という。
この話を聞いた経基公は最初、不機嫌だったが、試しに紅葉の襟に護符をかけさせようとすると、強固に拒んだ。紅葉を取り押さえようとしたら、煙のように消え失せ、本物の紅葉も召し捕られた。
紅葉は死罪に匹敵するものであったが、懐妊していることもあり、天暦10年9月、信濃国の戸隠に親子共々流された。
戸隠山は天台宗が盛んで、「戸隠三千坊」と言われ栄えていた。罪を犯した人も、戸隠山に上り、髪を剃って出家すれば、その罪は抹消されると言われていた。
戸隠の荒倉山の岩屋に住むようになったが、「紅葉は経基公の妬みによる無実の罪である。腹の子が生まれたら都に帰る」と、周囲に言いふらし、里人の信用を得るように努めた。
また、紅葉が扇を頭に頂き、呪文を唱えれば病気が治ると宣伝し、そのとおりになったので、紅葉は生き神様のように思われるようになった。だが、紅葉は人肉を食い、人の生き血を飲む鬼女だった。父が岩屋で死ぬと、紅葉の乱行はひどくなり、毎晩のように物を奪ったり、娘を奪ったりした。
安和2年7月、六十三代冷泉帝は、平維茂(たいらのこれもち)に戸隠の鬼女退治を命じた。
維茂は多くの武将を呼び集めて、戸隠の地形を調べさせ、自らも紅葉の顔を見届けようと、黒い墨染めの衣に身を包んで雲水に姿を変えて荒倉山へ登ってきた。
紅葉は妖術を心得ているので、明日は不可解な者が山中に来ることを悟っていた。宴会を催していたところ、雲水がやってきた。毒酒を飲まそうとしたが、「出家の身ゆえ、酒は禁じられている」と断った。
先発軍は岩窟を攻めたが、蔦に触れると大岩石が崩れ落ちるなどの仕掛けがしてあり、紅葉の妖術で大風や洪水が起きて惨敗した。第2陣も退却した。維茂は背後から攻めるが、紅葉は岩石を積み上げて一夜にして小高い山を築いて防いだ。これが荒倉山の北にある「一夜山」(1562m)である。
維茂は天台宗の信者であるから、北向観音に17日間詣でたところ、満願の暁に不思議な夢を見た。白髪の老僧が、懐から五寸ほどの剣を取り出し、「この剣で鬼女を討つべし」と言った。維茂が起きると、枕元に夢に見た剣が置いてあった。維茂は北向観音と戸隠大権現のご利益と思い、荒倉山へ進軍を開始した。
紅葉は妖術を使おうとするが、この日は妖術が効かない。維茂が剣を投げつけると、紅葉の右肩に当たった。紅葉はよろめいて、鬼女となって空中に舞い上り、維茂めがけて火を吹きかけたが、突如、戸隠奥の院の上空から金色の光が鬼女の両目を射抜いた。紅葉は地上に落ち、維茂の剣で討たれてしまった。維茂が大任を果たして安堵した見晴らしの良い場所を「安堵ヶ峰」と呼ぶ。
岩屋の残兵もことごとく討ち取ったが、官軍も大きな損害があった。その死体を埋葬し、石塔を建てた。これが中社西方の小高い傾斜地で、「石塔蔓根(せきとうつるね)」と呼んでいる。
鬼女がいなくなったため、この里を「鬼無里(きなさ)」と呼ぶようになった。
紅葉の第一の子分、おまんは35人力の怪力を持っており、健脚だった。寄せてくる官軍をバッタバッタとなぎ倒し、中社の西に来て手足の血を洗ったのが「硯石」である。おまんは自害し、本坊近くの「足神社」(足神さま)が墓だと言われる。足というのはおまんが健脚であったことからで、祈ると足が強くなるとされる。
維茂は紅葉の死体を焼き、志垣の五輪坂に埋め、五輪の塔を建てたという。この地を「鬼の塚」と言っている。(長野市戸隠栃原)
*荒倉山
長野県長野市の西側、鬼無里の近くの山。砂鉢山、新倉山、霧見岳、竜光山などの山塊の総称で最高峰は砂鉢山。標高は1432m。竜虎トンネル駐車場から登るコースからは、鬼女紅葉が隠れ住んだと言われる「鬼の岩屋」、「釜背負い岩」の奇岩や「紅葉の化粧水」などが点在している。
今日の
最低気温5.9度、最高気温12.8度。雨。

○……長野県内に多い「双体道祖神」。戸隠にもあった。縁結び、夫婦和合、子宝授けの神さまである。長野、山梨、静岡、神奈川、群馬の5県にしかないという。
男像の右手が女像の肩にかけられ、その手を女像の右手が握っている。双方の左手は1本の杖を仲よく握っているようだ。
もしかしたら、長野県に近い上越地方にもあるかもしれない。
↓「戸隠譚」

その中でも面白いのが「鬼女“紅葉(もみじ)”伝説」。1000年ほど前の話で、具体的な人名や、今も残っている墓や地名などが出てくる。
鬼女が住んでいた「鬼の岩屋」、鬼に転じた紅葉が出入りした「屏風岩」、紅葉が化粧に使った「紅葉の化粧水」、維茂が紅葉に毒酒を飲まそうとした「毒の平」、維茂軍と紅葉軍が戦った「竜虎ヶ原」、維茂軍が紅葉の残党を打ち滅ぼした場所「安堵が峰」、紅葉の副将おまんの墓がある「足神社」、紅葉ゆかりの寺「大昌寺」、鬼女紅葉の墓「鬼の塚」など、多くの場所がある。
まずは、「戸隠譚」で紹介されている「鬼女紅葉の伝説」を紹介したい。長い話なので3分の1程度に短くしてある。時間のある方は、ぜひ読んでほしい。
↓和綴じ本「信濃奇勝録」(天保5年=1834年刊)にも掲載されている伝説の地面

↓鬼女紅葉(鬼無里)

◇「鬼女紅葉の伝説」
約1000年ほど前のこと。奥州の会津に笹丸と妻の菊世がわびしく暮らしていた。子供が欲しくて第六天の魔王に祈願したら、承年7年11月、女の子、呉葉(くれは)が生まれた。呉葉は美しく聡明だけではなく、和歌や琴、三味線も上手だった。
近くの安賀寿村の川瀬源右衛門という豪農に源吉という一人息子があって、秋祭りに呉葉を見て一目惚れした。しかし、呉葉は貧しい農家の娘。両親にも打ち明けられず、やせ細っていった。
息子が呉葉に恋していることを知った両親は釣り合わない縁だとは思ったが、かわいい一人息子のためだと思い、呉葉を源吉の嫁に貰おうと、二人は持参金を持って呉葉の家に行った。
しかし、笹丸は絶世の美女である呉葉を連れて京に上り、高官に嫁入りさせれば、家は再興できると考えた。そのため、大金を用意していっても話は一向に進まなかった。
笹丸と菊世、呉葉が相談したところ、呉葉は「第六天の魔王さまにお願いし、力を借りたらどうか」と祈りながら呪文を唱えると、家の中が揺れ動き、一人の美しい娘が現れた。それは呉葉と瓜二つだった。
呉葉は第六天の魔王に祈って生まれた娘であり、その後も魔王の加護を受けて「一人両身」の妖術を体得していたのだ。呉葉は「身代わりの呉葉を嫁にやってお金をたくさんもって、京都へ参りましょう」と行った。
急に縁談が進み、大金と引き換えに、身代わりの呉葉は源吉の元へ嫁にいった。すると、源吉は元通り元気になった。
しかし、ある日、源吉と呉葉が庭を眺めていると、呉葉が呪文を唱え、降りてきた雲に乗って空高く舞い上がって、二度と帰ってこなかった。驚いて笹丸の家に行くと、すでに空き家だった。笹丸親子3人は大金を受け取ると、その夜のうちに京都へ旅立っていったのだ。
京都では四条通りに店を借り、化粧品や髪飾りを売る店を出した。笹丸は伍助、菊世は花田、呉葉は紅葉(もみじ)と名を改めた。紅葉は多くの弟子をとって、琴を教えると、その妙なる琴の音とともに、紅葉の美しさは京都で評判になった。
天暦七年の夏の夕方、源経基(みなもとのつねもと)の夫人が腰元5人を連れて通りかかった。すると、行き交う人を立ち止まらせるほどの妙なる琴の音が聞こえてきた。
経基夫人は、紅葉に琴の演奏を所望した。紅葉は魔王の助けを念じて一曲を演奏すると、人の業とは思われない琴の音が響いた。
これがきっかけになり、紅葉は経基公の館に出入りするようになり、ついに夫人の腰元として仕えるようになった。ある日、経基公の宴席に招かれ、琴の演奏を求められた。すると、経基は演奏だけではなく、紅葉の美しさに心を奪われてしまった。そして、紅葉は子を宿した。
経基公は紅葉に夢中になる一方、紅葉は陰に隠れた悪性を見せてきた。夫人が亡くなれば、自分は夫人になれると、毎晩祈り続けた。そのため、夫人の健康が優れなくなった。
比叡山の大祈祷を依頼すると、祈祷はすぐに行われた。「この護符(お守り)を襟にかけると悪魔は退散する。この護符を襟にかけるのを拒む者あれば、怪しいものである。特に紅葉に注意せよ」という。
この話を聞いた経基公は最初、不機嫌だったが、試しに紅葉の襟に護符をかけさせようとすると、強固に拒んだ。紅葉を取り押さえようとしたら、煙のように消え失せ、本物の紅葉も召し捕られた。
紅葉は死罪に匹敵するものであったが、懐妊していることもあり、天暦10年9月、信濃国の戸隠に親子共々流された。
戸隠山は天台宗が盛んで、「戸隠三千坊」と言われ栄えていた。罪を犯した人も、戸隠山に上り、髪を剃って出家すれば、その罪は抹消されると言われていた。
戸隠の荒倉山の岩屋に住むようになったが、「紅葉は経基公の妬みによる無実の罪である。腹の子が生まれたら都に帰る」と、周囲に言いふらし、里人の信用を得るように努めた。
また、紅葉が扇を頭に頂き、呪文を唱えれば病気が治ると宣伝し、そのとおりになったので、紅葉は生き神様のように思われるようになった。だが、紅葉は人肉を食い、人の生き血を飲む鬼女だった。父が岩屋で死ぬと、紅葉の乱行はひどくなり、毎晩のように物を奪ったり、娘を奪ったりした。
安和2年7月、六十三代冷泉帝は、平維茂(たいらのこれもち)に戸隠の鬼女退治を命じた。
維茂は多くの武将を呼び集めて、戸隠の地形を調べさせ、自らも紅葉の顔を見届けようと、黒い墨染めの衣に身を包んで雲水に姿を変えて荒倉山へ登ってきた。
紅葉は妖術を心得ているので、明日は不可解な者が山中に来ることを悟っていた。宴会を催していたところ、雲水がやってきた。毒酒を飲まそうとしたが、「出家の身ゆえ、酒は禁じられている」と断った。
先発軍は岩窟を攻めたが、蔦に触れると大岩石が崩れ落ちるなどの仕掛けがしてあり、紅葉の妖術で大風や洪水が起きて惨敗した。第2陣も退却した。維茂は背後から攻めるが、紅葉は岩石を積み上げて一夜にして小高い山を築いて防いだ。これが荒倉山の北にある「一夜山」(1562m)である。
維茂は天台宗の信者であるから、北向観音に17日間詣でたところ、満願の暁に不思議な夢を見た。白髪の老僧が、懐から五寸ほどの剣を取り出し、「この剣で鬼女を討つべし」と言った。維茂が起きると、枕元に夢に見た剣が置いてあった。維茂は北向観音と戸隠大権現のご利益と思い、荒倉山へ進軍を開始した。
紅葉は妖術を使おうとするが、この日は妖術が効かない。維茂が剣を投げつけると、紅葉の右肩に当たった。紅葉はよろめいて、鬼女となって空中に舞い上り、維茂めがけて火を吹きかけたが、突如、戸隠奥の院の上空から金色の光が鬼女の両目を射抜いた。紅葉は地上に落ち、維茂の剣で討たれてしまった。維茂が大任を果たして安堵した見晴らしの良い場所を「安堵ヶ峰」と呼ぶ。
岩屋の残兵もことごとく討ち取ったが、官軍も大きな損害があった。その死体を埋葬し、石塔を建てた。これが中社西方の小高い傾斜地で、「石塔蔓根(せきとうつるね)」と呼んでいる。
鬼女がいなくなったため、この里を「鬼無里(きなさ)」と呼ぶようになった。
紅葉の第一の子分、おまんは35人力の怪力を持っており、健脚だった。寄せてくる官軍をバッタバッタとなぎ倒し、中社の西に来て手足の血を洗ったのが「硯石」である。おまんは自害し、本坊近くの「足神社」(足神さま)が墓だと言われる。足というのはおまんが健脚であったことからで、祈ると足が強くなるとされる。
維茂は紅葉の死体を焼き、志垣の五輪坂に埋め、五輪の塔を建てたという。この地を「鬼の塚」と言っている。(長野市戸隠栃原)
*荒倉山
長野県長野市の西側、鬼無里の近くの山。砂鉢山、新倉山、霧見岳、竜光山などの山塊の総称で最高峰は砂鉢山。標高は1432m。竜虎トンネル駐車場から登るコースからは、鬼女紅葉が隠れ住んだと言われる「鬼の岩屋」、「釜背負い岩」の奇岩や「紅葉の化粧水」などが点在している。
今日の足跡
最低気温5.9度、最高気温12.8度。雨。

○……長野県内に多い「双体道祖神」。戸隠にもあった。縁結び、夫婦和合、子宝授けの神さまである。長野、山梨、静岡、神奈川、群馬の5県にしかないという。
男像の右手が女像の肩にかけられ、その手を女像の右手が握っている。双方の左手は1本の杖を仲よく握っているようだ。
もしかしたら、長野県に近い上越地方にもあるかもしれない。
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